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愛の寓意





聖ヴァレンタインの日。
愛の日にさえ長々と書かずにいられないのは野暮の極み...自覚している。

さて。

最初、ロンドンのナショナル・ギャラリー蔵、ブロンズィーノ『愛のアレゴリー(寓意)』1540−1545頃(写真上)のことを考えていた。


こちら、盛期ルネサンスとバロックの間にはさまれた「マニエリスム」がいっぺんに理解できるような作品である。

盛期ルネサンスは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジャロ、ラファエロをもって古典様式が完成されたと考えられ、当然その後は完成された様式を模倣する時期が続いたが、人間の感覚は麻痺してくるのか、さらなる刺激を必要とするのか、完璧な「美」も次第に誇張され、過剰になる。

人間の感性というのはそうできているのだろう、わたしたちはそういう類のものをいくらでも世間に見つけられる。
キャンプ(様式)もそうなのかな...わたしは大好きだけど。

下手クソな説明をするのはこの辺りでやめておこう。


ブロンズィーノの『愛の寓意』は、マニエリスムの美意識と技巧と教養遊びを極めたような作品である。

この絵の中心人物である二人、ヴィーナスとキューピッド(ヴィーナスの息子)は一見して冷艶清美、同時に言いようのない違和感をも醸し出している。
次に彼らの背景に目を移すと、学者の間でもいまだに決定的な解釈が定着していない、謎に満ちた人物やものが配置されているのに気づく。


解釈が定着していないため、以下はわたしの単なる想像だ。

わたしが最近ナショナル・ギャラリーでこの絵を見て(なにしろ入場無料なのでモエは入り浸りなのである)思ったのは、フィレンツェのウフィツィ美術館蔵、ボッティチェルリ『ヴィーナスの誕生』(写真下)だった。




ヴィーナスの誕生はこうだ(ヴィーナスとアフロディテは同じ女神のことです)。
ウラノス(天の神)がガイア(大地の神)を覆う。
と、ウラノスの息子クロノス(時の神)が父親の陰部を切り取り、それは海に落ちた。
その一部が泡となり、ヴィーナスが誕生し、キプロス島に流れ着く。

この絵では、中央に描かれた美しきヴィーナスが、今、島に降り立とうとしている。

ヴィーナスの右手側で薔薇色の衣を広げ、着せかけようとしているのは「時」のニンフ、ホーラだ。

「彼女の差し出す衣裳を身にまとうことは、「天の娘」であったヴィーナスが、時間の支配する世界、すなわち地上の世界に入り込むことを示す。天上のヴィーナスは、今まさに現実の世界に文字通り「上陸」しようとしているのである。」(高階秀爾『ルネサンスの光と闇・下』)

このボッティチェルリ の傑作『ヴィーナスの誕生』は、天上のヴィーナスが地上にくだり、地上のヴィーナスとなってこの世に美と愛と快楽をもたらす活動を始めんとする場面を描いているのである。

「「アフロディテ・ウラニア」(天上のアフロディテ)と「アフロディテ・パンデモス」(地上のアフロディテ)とは、精神的なものと肉体的なもの、ないしは理想的なものと現実的なものという「愛」のふたつの面を象徴する女神のこと」(同上)

「実際はアフロディテは二柱」(同上)

ヴィーナスは、美の持っている、多様なものや相矛盾するものの統一と調和という本質を現しているのだ。
こうしたヴィーナスの二柱性を描いた絵画は枚挙にいとまがない(例えばティッツイアーノ『聖愛と俗愛』1514 ボルゲーゼ美術館蔵)。



再び話を『愛の寓意』に戻す。
一般的に、『愛の寓意』の右上の男性は時の翁で、青い布を開けて真実を「暴こう」としているということだが、もしかしたら「着せかけよう」としているとは考えられないのか? 『ヴィーナスの誕生』で、時のニンフ・ホーラが、ヴィーナスに衣を着せて、天上のヴィーナスを地上のヴィーナスとして迎え入れようとしているように。

矛盾している背景(右の可愛い顔をしながら獣の体を持つ少女とか)は、これからヴィーナスが調和を与える混沌とした世界の象徴。

つまりこのシーンは、「アフロディテ・ウラニア」(天上のアフロディテ)が、時間の衣を着せかけられることによって、地上の混沌に調和を与えんとする「アフロディテ・パンデモス」(地上のアフロディテ)に変身しているシーン...ということになる。

というのがモエの解釈、まあ学者さんが聞いたら笑うであろう与太話であるが。


そう考えたらば、右手の薔薇の花を投げつけようとしている子供は、春を運んでくる西風ゼフュロスのような役割を持っている(足に刺さった棘は説明できないけど...)。

母親である愛と美の女神に口づけするキューピッドは目隠しをされていないので、理性的判断のできるキューピッドである。が、彼もまた「「目の見える」より高い精神的存在へ自己を高めなければならないのだ。

そして精神的存在へと己を高めることこそが、「愛」そのものの至高目的にほかならない。
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