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manon, alina cojocaru





イングリッシュ・ナショナル・バレエの『マノン』、ロンドンのオープニングナイトへ。

バレエ『マノン』は、18世紀プレヴォの小説を題材にした作品だ。
振付家ケネス・マクミラン(Kenneth MacMillan)節が炸裂し、マスネの音楽という組み合わせも破格。
わたしは特に振り付けと音楽が非常に好みだ。

マノン役は、現役バレエ・ダンサーの中でも間違いなく別格クラスに属するアリーナ・コジョカル(Alina Cojocaru)。


イングリッシュ・ナショナル・バレエのプロダクション全体的にすばらしい仕上がりで、そしてやはり、やはり、アリーナ・コジョカルがこの上もなく素晴らしく、息をするのも忘れるほどだった! 

アリーナの徹頭徹尾の正確さ、そのアポロ的(荘厳な格調ある、冷静な自己抑制)なダンス技術に、ディオニソス的(騒々しさ、陶酔、狂気)なストーリーが合わさって大迫力が生まれていた。

もちろん彼女に備わっているのはダンスの技術だけではない。
表現力、つまり、ニンフェットというのは、ピュアで幼いながら妙に老成した部分があり、このような微笑みで、瞳と肌の透明な輝きで、目線の送り方で、どっちつかずの仕草(ジンメルは「媚態」を「誘惑と拒絶の間を絶え間なく動き、どちらかの極に停止することがない」と定義)をするのであるという。
地上に間違って舞い降りた天使か悪魔か、出会う人出会う人を片っ端から無意識に幻惑しては夢中にさせる魔法を使うのだと完全に説得されてしまった。

アリーナのあの天使のような微笑み! 登場人物でなくても頭がクラクラしましたよ...


ひとつ指摘するとすれば、第二幕の娼館の女性たちの衣装が捨てられたバブルガムのように醜く、しかしこのシーンはマノンの何にも侵されない清らかさと気高さを表現するためだと考えよう...


去年も書いたことだが、18、19世紀ごろ「娼婦」がしばしば小説の素材になったのは、女性には多くの生活手段がなく、娼婦をする以外に生き延びることができない女性が実際少なくなかった事情もあるだろう。

頂点には極少数の高級娼婦と呼ばれミューズになった美しく機知に富んだ女たちがおり、大部分は底辺で『レ・ミゼラブル』のファンティーヌのような一生を送ったに違いない。

彼女らの生きざまをアートが取り上げるのは、彼女らを取り巻く環境から人間や社会の諸相を浮き彫りにし、同時に「肉体的、金銭的な情欲は、真実の愛に敗北する」という普遍的なモラルを描くためだったかとわたしには思われる。

改心した娼婦(マリア・マグダレーナしかり)とか、娼婦でありながらも純粋で清らかな女とか、物質的世界に生きる美しい女が、精神的な真の愛に目覚めて改心する(がもう遅い)、死をもって過ちを贖う、というストーリーは宗教的でもあり、男性好みでもあり、ミソジニーもありで人々の心をつかむのか。


(右上の写真はThe Telegraphより)
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