13人全員が死んだ、愛知大学山岳部、薬師岳遭難は、
山岳遭難史上、最も有名な遭難事件のひとつとして現在に至るもその名を残しています。
薬師岳は富山の市街地からも見える、北アルプスの名峰(2926)です。
私が、富山から折立~雲の平へと行ったのは何時だったか?
記録も写真もまるで残っていないのですが、多分1990年頃だったのかもしれません。
(写真好きな私が、なぜ一枚の写真も撮っていないのか、理由が不明。
というかいつも単独行である私はカメラも持参していなかったのかもしれない?)
私は憧れの「日本最後の秘境」と言われる雲の平を目指しました。
今どき、そこに至るのに2日間も歩かなければ行かれない場所など、
日本には雲の平しか残っていないのです。
富山駅から地方鉄道に乗り換えて約1時間で、有峰口に到着。
そこからバスに乗り換え、これも1時間くらいで折立に着きます。
バス停から歩き始め、いよいよ登山口といった場所にこれが建っていました。
これが有名な愛知大学遭難碑(13重の塔)かと思いました。
そこからひたすら歩き、着いた先が太郎小屋です。
私はここで最初の1泊目となりました。
尤もこれは現在の、それも無雪期の小屋であり、
愛知大学遭難の1962年(昭和38年)とは全然違っているのでしょう。
愛知大学山岳部はヒマラヤ登山を視野に入れていました。
今回はその訓練の為に、極地法という登山形式での薬師岳登山でした。
極地法というのは、大勢の人数で、登る毎にベースキャンプを設け、
物資を担ぎ上げ、最終的に一部のアタック隊と呼ばれる選ばれた人だけが頂上を極めるのです。
その対比にあるのが、アルパインスタイルという登山法で、
荷物だけを担ぎ上げるサポート隊無しで、各自が自分の荷物を背に一気に頂上を極めるのです。
極地法を採った彼等は、太郎小屋をベースキャンプにして、
徐々にキャンプ1,キャンプ2と荷物を運んで頂上へと近づいていったのです。
しかし、彼等はあまりにも不運でした。
あの豪雪が今でも名を残す(三八豪雪・昭和38年、さんぱち豪雪)の日と重なってしまったのです。
彼等はあまりの吹雪に小屋やアタックキャンプから外へ出られなくなってしまいます。
同じ頃、日本歯科大学パーティー(6名)も愛知大学と同じルートでの登頂を目指していました。
彼等は愛知大とは違ってアルパインスタイルで頂上を目指していました。
その日、愛知大学は上部にキャンプを設営しました。
その横を歯科大学の6名が頂上へと登って行きました。
愛知大学もそれに刺激された(?)のか、頂上へとアタックを開始しました。
そのうち、愛知大学は歯科大学に追い付き、それを抜いて行きました。
その時、歯科大のパーティーは愛知大パーティーに何か不自然さを感じました。
彼等があまりに軽装だと見えたのです。
極地法ゆえにキャンプ地に装備を置いてきたのかもしれない・・そうも思いました。
歯科大は吹雪の中、ようやく頂上に達します。
そして愛知大パーティーの到着を待ったのですが、遂に彼等は現われず、歯科大は下山を開始。
下山途中で愛知大のテントの横を通りますが、彼等がそこに来た痕跡はありませんでした。
食料も尽きかけた日に、歯科大パーティーは全員無事に帰り着きました。
しかし、そうなると愛知大学の彼等は・・・
帰宅予定日(予備日も含めて)を過ぎても帰らないに日本中が大騒ぎになりました。
報道陣は自社だけの特ダネを目指して、しのぎを削り目の色変えての取材戦争になります。
悪天候でヘリコプターは降りる事が出来ず、
そんな中で朝日新聞社のヘリが危険を冒して太郎小屋に強硬着陸。
あの有名な記者だった、本多勝一が第一報を送りました。
「来た、見た、居なかった。太郎小屋に人影なし」
このニュースは号外になって日本中に発信されました。
彼等はどこに消えたのでしょう?
彼等は地図も磁石さえも持っていませんでした。
そんな事って、普通だったらあり得ない。
彼等は真っすぐ行くべき分岐点を左へと迷い込んでしまったのです。
猛吹雪の中で、地図とか磁石と言っても、それは役に立たなかったかもしれませんが。
彼等の行方を追って、様々な団体、捜索隊などが探し回りますが、発見できません。
捜索は中止となりました。
しかし、3月23日になって、友情捜索に名を上げていた名古屋大学山岳部が、
方角違いの東南尾根に5名の遺体を発見。
それから5月までに更に6名、合計11名の遺体を発見しました。
最後まで発見されなかった2名が、遺族の執念の捜索により発見されたのは10月でした。
彼等が13名全員死亡という悲劇的な死に、なぜ至ったのか?はその後も議論されました。
本来20名参加だった人員は、4年生がほぼ参加出来なくなり、
残った4年生は、2名のみであり、
指揮系統に何らかの問題が起きてしまったとか、しかし、結局憶測の域を出ません。
今更何をどう言っても、若い彼等は全員がもう戻ってはこないのです。
こういった団体での遭難を見て思うのは、
「俺はいつも単独で良かった」
団体行動というのは、一人一人の個性とか発言力とかで支配されかねません。
たった一人の強い人が居ると、全員がそれに従わざるを得なかったり、
強い一人に同調者が出たりすると、もう弱い一人の意見など誰も聞かなくなってしまいます。
手ごわい山への登頂では、単独はあまりに無謀でも、
複数だと、単独では無いほど強力なパワーを発揮したりもします。
でも、山は単独で行かれない山を、誰かに連れてってもらう、そういった意識は危険です。
一人では行かれないと思った登山を営利目的のツアー登山などに、
自分の命を・・私は預ける事など問題外です。
愛知大学は営利目的などでありませんが、
誰かに連れてってもらう、そんな意識の下級生が居なかった・・どうなんでしょう。
だから私は、あくまでも単独行で良かったと今でも思っています。
単独行者の私は、いつも臆病過ぎるほど臆病で用心深かった。
登山はそれでいいんだと思っています。