この数馬達の移送については、京の伏見から、淀川を経由して、浪速から播州坂越まで瀬戸内海の船旅でした。その船は備前岡山藩主池田光政は用意しますが、当時播州山崎藩主であった池田輝政の四男松平輝澄の方からも警護の船を出し、その数は大小三〇艘にも及び、一大船団を組んでの船旅だったのです。
この坂越からは、陸路鳥取までの旅になります。その途中の草深い所にはその土地土地の侍たちも出て、草などを刈って見晴らしを良くして、高い山の頂上に見張りの者を置いて厳重に辺りを監視していたのです。その上、夜は宿に篝火を焚かせて警護していたのです。坂越から鳥取まで三泊を要したそうです。
その時、数馬は二七歳、又右衛門は三十歳だったそうです。
鳥取へ来てからの、此の二人は、どのような生活をしていたかは、この常山紀談の中には書かれてはいませんが、別の記録によりますと、鳥取藩主池田光仲は又右衛門と数馬に禄として千石を与え、その後も、厳重な警護も元に置かれ、当分の間、勝手に外出などできなかったと言われています。
寛永と云う時代に、天下にその人ありと謳われ、剣豪としてあがめられた荒木又右衛門と云う一大英雄は、その名の大きさに比べて、それ以後の生涯は、案外に、寂しくはかない人生ではなかったかと想像できます。剣術指南をして華々しく活躍するとか、宮本武蔵みたいに絵を描くとか、そんなんこともなく、何もその後の偉大さを物語る足跡を残すことなく、平凡に三十九歳の若さで、病を得て、亡くなってしまったようです。
これが又右衛門のお墓です。
鳥取市にある玄忠寺というお寺に葬られています。なお、そのお寺の記録ですと、荒木又右衛門は39歳歳で死んおり、この記録が正しいなら、鳥取では9年間暮らしたことになります。当然、彼の妻も此の鳥取に来たはずですが、どうなったかは定かではありません。
また、義弟数馬の墓は、又右衛門とは別に、藩主光仲の菩提寺である興禅寺にあると言う事です。どうして、又右衛門と同じ寺にないのかも不思議ですが、歴史は何も語ってはくれませんが、この数馬も35歳で生涯を終わっています。
この坂越からは、陸路鳥取までの旅になります。その途中の草深い所にはその土地土地の侍たちも出て、草などを刈って見晴らしを良くして、高い山の頂上に見張りの者を置いて厳重に辺りを監視していたのです。その上、夜は宿に篝火を焚かせて警護していたのです。坂越から鳥取まで三泊を要したそうです。
その時、数馬は二七歳、又右衛門は三十歳だったそうです。
鳥取へ来てからの、此の二人は、どのような生活をしていたかは、この常山紀談の中には書かれてはいませんが、別の記録によりますと、鳥取藩主池田光仲は又右衛門と数馬に禄として千石を与え、その後も、厳重な警護も元に置かれ、当分の間、勝手に外出などできなかったと言われています。
寛永と云う時代に、天下にその人ありと謳われ、剣豪としてあがめられた荒木又右衛門と云う一大英雄は、その名の大きさに比べて、それ以後の生涯は、案外に、寂しくはかない人生ではなかったかと想像できます。剣術指南をして華々しく活躍するとか、宮本武蔵みたいに絵を描くとか、そんなんこともなく、何もその後の偉大さを物語る足跡を残すことなく、平凡に三十九歳の若さで、病を得て、亡くなってしまったようです。
これが又右衛門のお墓です。
鳥取市にある玄忠寺というお寺に葬られています。なお、そのお寺の記録ですと、荒木又右衛門は39歳歳で死んおり、この記録が正しいなら、鳥取では9年間暮らしたことになります。当然、彼の妻も此の鳥取に来たはずですが、どうなったかは定かではありません。
また、義弟数馬の墓は、又右衛門とは別に、藩主光仲の菩提寺である興禅寺にあると言う事です。どうして、又右衛門と同じ寺にないのかも不思議ですが、歴史は何も語ってはくれませんが、この数馬も35歳で生涯を終わっています。