私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

渡辺数馬報讐始末の事 7

2010-10-15 18:11:24 | Weblog

 形通りの固めの杯を交わした荒木又衛門は、着ていた羽織を、その屋の主人に与え、何を思ったのか、その屋の庭に出て、刀を抜き、素振りを幾度となく繰り替えすのでした。
 その辺りの様子を「常山紀談」には、次のように書いています。(原文のまま)

 「庭に飛出てをどり上り上りしたる有様 すくやかなる(考えや行動かしっかりしている)男のけふを限りと思うけしきあらわれて、只鬼などもかくあらんと見えしと、人、後に語りけり」

 あの又衛門でさえ仇打ち前夜はこのように、鬼のような様相で、何かしなくてはおられないような、落ち着かない切羽詰まった心理状態になっていたのです。唯、勇敢にでんと構えて、静かに、その時を待つと言う事はなかったのです。荒木又衛門も、やはり、人の子であったのです。講談なんかに出てくるのとは随分違った仇を討つ者の心理状況が映し出されています。
 剣豪といえども、平常心を保つことが如何に難しいのか分かる一側面です。

 一昨日、私は岡山県立美術館で「岡山・美の回廊」展に行ってきました。岡山が誇る剣豪宮本武蔵の描く絵も数点展示されていましたが、総ての彼の絵には、何ものをも圧倒するような凛とした圧迫感が感じられるように思われました。相手と対峙する前に感じたであろう「けふを限り」と思う緊張感が、その筆の中に漂っているようでした。
 どうです、何者おも恐れはしないぞと云う「気迫」が画面いっぱいに漲っています。しかし、その影の中には、己を虚しゅうするような寂しさが感じられます。孤独なる人生かあります。人とは何であろうかという彼自身の問いかけがあります。
               



                             

 この荒木又衛門にも、武蔵と同じように、絵や書が有ったのかは知らないのですか、やはり、その緊張感は体験として自らの心の中にしっかりと、根付いていたはずです。武芸者は、総て、僧侶などの宗教家とは、また違った感覚が身に付いていたのではないでしょうか。

 人とは一体何でしょうかね。秋の夜長をそんなふうに、荒木又衛門の仇打ちを書きながら、思いめぐらせてみました。