私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

渡辺数馬報讐始末の事 13

2010-10-22 19:35:39 | Weblog
 渡辺数馬の仇打ち事件も最終に近づいてきました。昨日も書いたのですが、確たる証拠はなかったのですが。安藤某を接点にして、ここは、おいらの塒よろしく自由気ままに、「そこ除け、そこ除け」と、新興の江戸市中を闊歩していた旗本達にとっては、この事件は、どうにも腹の虫が収まらないことのように思えたのです。「旗本八万騎」として、うぬぼれもいいことに、尾張辺りのど田舎出の癖に、俄に将軍の親衛隊になったものですから、鼻高々の、成り上り者である事も忘れての傲慢ちきな態度で威張り散らして暮らしていたのです。
 「よくも俺たち旗本の面子を汚しおったな」
と、云う怒りが最高潮に達します。
 それに対して、此の鍵屋の辻の仇打ち事件を知った、世間の目、いや江戸市民たちの目には、あの小憎たらしい傲慢ちきな旗本たちが援助していた者たちが、悉く切り殺されるということは、誠に、何と云う小気味のいい事件として映ったのではないでしょうか。
 「ざまあみろ、旗本たちよ。お前たちが思うような世の中になってたまるもんか。いい気味だ」
 と、胸を撫で下ろすような痛快な事件でであったことは疑いない事だと思われます。それが、たった3人斬っただけの荒木又右衛門に、36人もの人を切り殺したと言う噂にまでに広がる原因になったのではないかと思われます。
 此の話は、どこか、あの幡隋院長兵衛の話にも通じるところがあります。

 この数馬、又右衛門に対しての、この旗本達は腹の煮えくりかえるばかりに不愉快なことであった事には間違いありません。
 「此の二人を生かしておいては、我々旗本のメンツが丸つぶれだどうにかして二人の命を」
 と、相当な不穏な動きがあったのでしょう。
 彼らの仕返しに、どうも数馬たちの身の安全を保証しかねる思いが、藤堂家やそれを助けていた池田家などの外様大名の中にあったことは間違いありません。そこで、この旗本たちに対抗する手段を講じます。そこら辺りの事情は、詳しくは常山は書いてはないのですが、此の二人の身のより安全を考えたのでしょうか、最初、数馬たちは藤堂藩の支配の元にあったのですが、急遽、鳥取の松平勝五郎光仲の元に預けることになり、二人を鳥取に移す事に決まります。
 なお、この松平光仲と云うお人は、最初は。備前岡山藩主でしたが、藩主になった時はわずか3歳の時でした。山陽道の要所たる岡山を統治するには、あまりにも幼な過ぎるという理由で、その時、鳥取藩主であった従兄弟の池田光政と替っって鳥取に入城したと云ういきさつがあります。

 数馬は、もともと、この光仲の時に岡山に遣って来た人です。そんな関係から鳥取藩に身を預け、その身の安全を確保し、外様大名としての、これ又、メンツを保とうと考えたのです。それくらい、初期の江戸に於いては、悉く、外様大名と旗本たちは対立していたのだそうです。仲が悪かったのです。

 なお、蛇足ですが、此の池田光政の妻があの家光の姉千姫の一人娘勝姫で、その子が後楽園などを造った池田綱政です。そんな関係で幕府も、幾分は数馬達を支援していたような形跡が残っているようです。