私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

板倉大橋

2006-08-04 21:04:25 | Weblog
 
 吉備津には「大橋」という字名をもつがあります。なぜ大橋かと言いますと昔、神武天皇が、吉備に3年留まりになり、軍船や兵を増強されたと、日本書紀に書かれています。
その時、天皇は、車で吉備の各地に行幸され、天皇がお乗りになったお車が十分通れるような大通りが、幾筋も整備されていていたと言う事です。大きな川も縦横に流れていたと思われます。
 そんな川には、当時としては、流行の最先端とされる大変珍しい「石」で出来た橋も、当然ありました。
 その橋をお渡りになる天皇のお車は、ガラガラと大きな音を立ててお通りになったそうです。
 それ以後、この橋は「轟橋」と呼ばれたということです。当時では他の場所にはない珍しく大きな石の橋であったので、又の名を『大橋』とも呼んだということです。
 石は、この地方には、万成石と呼ばれる御影石の産地としても有名な土地です。
 なお、一説には、孝霊天皇の行幸の時だとする説もあります。


 この轟橋は、現在では影すらとどめてはいませんが、惣爪にあったと言う事です。惣爪の北隣に「橋向」と言うもあります。それからも、この「とどろき橋」が、この地に存在したと言う事を実証する有力な手がかりではないでしょうか
  
   古歌に
     霰降る 玉ゆりすへて みるばかり しばしなふみそ 轟の橋
     いにしえの ならの都は 現にて 夢路をたどる とどろ木のはし
 と、いう歌もこの地に、まだ残っています。

 その昔、現在の高梁川は総社から山沿いに備中高松付近から3手に別れ、別れた付近に、現在『高松町三手』の名が残っています。
 そこから、一番東側を足守川が合流して、この惣爪の付近で南へ蛇行して、現在の庭瀬の『川入』から、吉備の穴海に入っていたのだと思います。
 この川を板倉川と呼んでいたようです。だから神武天皇の当時、この辺りを流れていたのは、相当大きい川であったことが予想できます。
 だから、「大橋」と言う名のつくこの橋は、当時、相当大規模な土木事業によって成し遂げたものではないかと思います。吉備の人たちの技術だけでは到底出来なかったような大規模国家プロジェクトではなかったかと思います。国際的協力があって初めて出来たものではないかと思います。造山、作山両古墳を造る過程が似ていたのではと想像を高めております。
 当時のわが国にはなかった中国や朝鮮の人たちの技術によってつくられたものではないかと想像できます。
 当時この地方は賀陽(かや)と呼ばれていました、「かや」とは、「伽耶」で朝鮮民族が多く移住してきて、住み着いていた地域でもあったようです。
 彼らの知識・技能を大いに利用して強大な吉備王國を造った原因にもなったと思います。
 そんな地域が我、吉備津なのです。

   板倉橋の 橋をばだれも 渡れとも いなほせ鳥は 過ぎかてにする