笑顔浴

優しい時間

都道府県あてゲーム

2011年05月09日 | Weblog

地図は大の苦手です。

使わない知識はどんどん抜けてゆきます。

あまりに恥ずかしいので、ゲームで暗記しようかとチャレンジしています。

日本の県名が表示されるので、その場所を選びます。

なかなか正解できません

(脳トレゲーム 都道府県あて) 

http://www.p-game.jp/game72/


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英国王のスピーチ

2011年05月07日 | Weblog

「英国王のスピーチ」を研修会場で薦められて

いつまでやってるんだろう?とネットで調べると

今夜、8時半からの上映で最後とわかり、ぎりぎり セーフ!

夕食後に急遽、映画を見に行きました。

 

どういう物語か、まったく知らなかったのですが・・・

幼い頃から吃音の英国王と、オーストラリア人の言語聴覚士の物語でした。

スピーチにより、国民に支持されなければならないナーバスな皇太子は

地位も資格もなく、貧しく周囲から軽蔑されながら 家族と、シエークスピアを愛する男性と出会い

やがて英国王として、国民の心をひとつにするためのスピーチに臨むのでした。

 

治療において、

相手が貴族であっても対等な関係を求め、ルールを守れと詰め寄るところは

心理カウンセラーに共通するものでした。

うまく関係が結べず、「しくじった・・」と後悔する男性に親近感を覚え

相談者の暴言と八つ当たりに耐える姿や、冷静な判断を尊敬し、

執着しない距離のとり方も学びました。

 

信頼する人を得ると、自分をも信頼できるようになるのは興味深いものです。

 

「英国王のスピーチ」公式HP

 http://kingsspeech.gaga.ne.jp/


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お茶でもいかが?

2011年05月06日 | Weblog

勉強しろというと、勉強しないという。

勉強するなというと、勉強させろという。

学生達も、他人に支配されたくないのでしょう。

「したら しただけ、寝てたら それなり。 どうするかは自分で考えろ」と私は学生に伝えますが、

国家試験の高合格率を維持したい担任の先生には考えられない無責任な発言です。

 

さて、ビルの屋上で 今、まさに飛び降りようとしている人に 警察官が声をかけています。

「死ぬな!死んではいけない」と詰め寄ると、「近寄るな、絶対に死ぬ!」と応える。

「やめろ、考え直せ」と説得すると、「これしかない、絶対にやめない」と応える。

そこへ、たまたま お掃除のおばちゃんが通りかかってしまった。

「死ぬほど追いつめられて、あんたもかわいそうになあ~。
 死ぬ前に、あたたかいお茶でも飲んでゆくかい?」と声をかけたら

「はい」と素直に降りてきたという 実話があるらしい。

 

自殺抑止が仕事である警察官や、生きててほしいと強く願う家族

自死は悪だと執着する人には思いもよらないセリフ。

その人の生死に直接関係がない 通りががりの他人だからこそ

死ぬのも生きるのもあなたの自由で、どっちでもいいし、

私には関係がないのでという無責任なスタンスで関われるのですね。

けれども お茶やお菓子や優しいもてなしが、張り詰めた心に隙間を作り

ガチガチの「~であるべきだ~せねばならない枠」を少し緩めたようですね。

 

 


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人生の危機

2011年05月06日 | Weblog

5月2日~5日は3日間の集中講義でした。
9時過ぎに駐車場に到着し、建物に向かって歩くと
ジャスミンやつつじの甘い香りに包まれました。
初夏です。
玄関の横に新聞紙が敷いてあったので
見上げると巣で若いツバメの夫婦がくつろいでいました。
オハヨ~

3日目の昨日は、人生の危機や危機介入がテーマでした。
最初に、今までの危機的状況と、その後の経過を思い出し
その時の気持ちも思い出しました。
私達は、幼児の頃から沢山の危機に遭遇しています。
現在、笑って語れる危機は、生きる方法を学習できた危機。
思い出すと混乱する危機は、今も脱していない危機かもしれません。

例に「迷子」のお話がありました。
迷子の3歳の子供は泣き叫ぶ以外に何もできません。
恐怖と不安で思考が止まり、名前も言えません。
やがて周りの人々が保護して探していた家族に戻されます。
親子にとって強烈な思い出になるとともに
泣けばなんとかなる!とか、助けてくれる人がいると学習できます。
小学生になればもっと知恵がつき、自ら交番を訪ねるでしょう。

私も時々迷子になりますが、迷子になったからといって今は泣き叫びません。
どうすればいいか考えて行動できるからです。
「どうしたらいいか、わからない状態」を危機と呼び
「どうしよう」と考える状態はすでに危機を脱しています。

「迷子」の危機は乗り越えられても、
更に困難で、経験のない危機が 新しい危機として現れます。
新しい学習のチャンスでもあるのですが
危機の下の現実が苦しすぎると、その場から逃げたかったし
このまま消えることができたらどんなに薬だろうと感じました。
心身症のような身体症状も体験しましたが
これまでのどの危機も、周囲の人の支援によって乗り越えられたので
なんとかなるという、楽観的な考え方ができるようになったのでしょう。

「絶体絶命」の危機も、パニック状態から早く脱し、
どうしようかと考え始めることが重要だと知っておくことが大切で
相談者が冷静さを取り戻すためにも、
相談員が感情に飲み込まれないように注意したいと思いました。


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トモダチ

2011年05月02日 | Weblog

入学直後から「友達ができない」と悩む学生が多いそうだ。
「友達ができない」という理由だけで転校・中退する学生も増えたらしい。
大学側で「友達づくり」の支援など、これまで想像したことがなかったが
現在、私自身が学生と過ごす時に、カナリ意識している。

学生たちは、友達がいない寂しさより、いない恥ずかしさが苦痛そうに見える。
 「暗い人」が嫌われる一方で、異常に明るい学生に出会うこともある。
友達のいない人に見られたくないから、トイレでお弁当を食べる人もいると聞き
理解できないような、理解できるような。深刻な心の闇だと思う。

学生が一番恐れるのは、KY(空気読めない人)といわれてきたが
今は、「友達いない人」かもしれない。

「友達がいなさそう」という評価は、彼らにとって最も手厳しい罵倒ではないかと、
 作家の津村記久子氏が日経新聞で述べた。
(人格の根本部分を、あらゆる否定をほのめかして突くから)
 
携帯電話に何百人も「友達」を登録して安心できる人もいるそうだけど。
匿名で、性別も年齢も不明、顔も知らない友達の存在で癒されるネット上の友達。
一人じゃない。人並みである。否、人より多い。
登録者数で安心できる孤独を切ないと感じた。

集団に所属できても、不自由だ。
たとえば、グループワークで2人組になあれ!と指示しても
いつまで 待っても グループができない。
見かねた先生がグループ分けしてくれるのを待っているのか。

多くの場合、原因は10人前後の元のグループが奇数だから2で割り切れない。
大学生なんだから、とりあえず、2人組に分かれてみて
相手のいない人を誘って 私達は三人組でいいか?と提案してくれるとか
人数を数えて、自分が抜けて報告にくるとか
隣近所のグループに行って 相手のいない人を探すとか、
何かしら行動を起こしてほしいのだけど、
10人前後の元のグループの、その全員が 銅像のように、かたくなに動かない。

彼らが動けないのは、人と違う行為を警戒してるのだろうと想う。
1番に行動すると目立ってしまうから、全員で誰かの動くのを待ってる感じがする。
絶えず周囲と同調しようと懸命に努力しているので
いい意味でいうと勝手な行動はしない。
リーダー不在の膠着状態を維持するのが精一杯なのだろう。

年月がところてんのようにスルスルと彼らを学校から押し出してしまいそうだ。
人との関わりは、個人がそれぞれ違うことを認識するところから始まる。
人と違うことを恐れる彼らの心を緩め、のびのび行動してもらえるよう
私にできることがないか、ずっと考えている。


 


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お友達

2011年05月02日 | Weblog

「解剖図は、お友達と交換して採点してもらいましょう」

「・・・・・・・・」

「えと、交換しましょう~」

「お友達がいない人は、どうしたらいいんですか?」

「俺も、お友達が いねえ」

「では、お友達が居ないお二人で交換してください」

と指示すると ナニ? みんながスムーズに作業 できてる!

他人に見られて恥ずかしいとか、そういうことじゃ なかったのね。

 

(誰でもよい)三人称の「お友達」も 去年まで通じてたんだけどなあ。

クラスメイトを「お友達」と呼ぶところに問題があるのでしょうか。

「小学生になったら、小学生になったら、トモダチ百人できるかな」というCMソングが

子供のいじめ自殺が浮上した頃に批判されて かれこれになる。

「トモダチノ トモダチモ、皆 トモダチダ」とか「人類は、皆、兄弟」で育った私と

「トモダチ地獄」で育った青年の「友達」に対する条件が違うのは自然なことで

関係性を「クラスメイト」「隣に座っている人」で表現すれば、よかった。

 

私にとって「知り合い」と「友達」の差はわずかだ。

知り合いです、というのは、排他的な言い方ではない。

「友達」と「友人」の隔たりはどうだろう?

「友人」と「親しい友人」の差はどうだろう?

さらに「恩人」は多い。

特におしゃべりしなくても「働く仲間」「ボランティア仲間」「学ぶ仲間」の存在もある。

その親密度や距離感は年々、月々、刻々と変わるし、

交流の深さや頻度、共有した出来事の大小で異なるのは確かだ。

私の感じる親密さと 相手の評価が一致することは少ないと想う。

本日における真の関係性を評価できないため

誰でも、とりあえず「友達」と称するのが 私にとっては 便利なのだ。

 

 


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