笑顔浴

優しい時間

トモダチ

2011年05月02日 | Weblog

入学直後から「友達ができない」と悩む学生が多いそうだ。
「友達ができない」という理由だけで転校・中退する学生も増えたらしい。
大学側で「友達づくり」の支援など、これまで想像したことがなかったが
現在、私自身が学生と過ごす時に、カナリ意識している。

学生たちは、友達がいない寂しさより、いない恥ずかしさが苦痛そうに見える。
 「暗い人」が嫌われる一方で、異常に明るい学生に出会うこともある。
友達のいない人に見られたくないから、トイレでお弁当を食べる人もいると聞き
理解できないような、理解できるような。深刻な心の闇だと思う。

学生が一番恐れるのは、KY(空気読めない人)といわれてきたが
今は、「友達いない人」かもしれない。

「友達がいなさそう」という評価は、彼らにとって最も手厳しい罵倒ではないかと、
 作家の津村記久子氏が日経新聞で述べた。
(人格の根本部分を、あらゆる否定をほのめかして突くから)
 
携帯電話に何百人も「友達」を登録して安心できる人もいるそうだけど。
匿名で、性別も年齢も不明、顔も知らない友達の存在で癒されるネット上の友達。
一人じゃない。人並みである。否、人より多い。
登録者数で安心できる孤独を切ないと感じた。

集団に所属できても、不自由だ。
たとえば、グループワークで2人組になあれ!と指示しても
いつまで 待っても グループができない。
見かねた先生がグループ分けしてくれるのを待っているのか。

多くの場合、原因は10人前後の元のグループが奇数だから2で割り切れない。
大学生なんだから、とりあえず、2人組に分かれてみて
相手のいない人を誘って 私達は三人組でいいか?と提案してくれるとか
人数を数えて、自分が抜けて報告にくるとか
隣近所のグループに行って 相手のいない人を探すとか、
何かしら行動を起こしてほしいのだけど、
10人前後の元のグループの、その全員が 銅像のように、かたくなに動かない。

彼らが動けないのは、人と違う行為を警戒してるのだろうと想う。
1番に行動すると目立ってしまうから、全員で誰かの動くのを待ってる感じがする。
絶えず周囲と同調しようと懸命に努力しているので
いい意味でいうと勝手な行動はしない。
リーダー不在の膠着状態を維持するのが精一杯なのだろう。

年月がところてんのようにスルスルと彼らを学校から押し出してしまいそうだ。
人との関わりは、個人がそれぞれ違うことを認識するところから始まる。
人と違うことを恐れる彼らの心を緩め、のびのび行動してもらえるよう
私にできることがないか、ずっと考えている。


 


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お友達

2011年05月02日 | Weblog

「解剖図は、お友達と交換して採点してもらいましょう」

「・・・・・・・・」

「えと、交換しましょう~」

「お友達がいない人は、どうしたらいいんですか?」

「俺も、お友達が いねえ」

「では、お友達が居ないお二人で交換してください」

と指示すると ナニ? みんながスムーズに作業 できてる!

他人に見られて恥ずかしいとか、そういうことじゃ なかったのね。

 

(誰でもよい)三人称の「お友達」も 去年まで通じてたんだけどなあ。

クラスメイトを「お友達」と呼ぶところに問題があるのでしょうか。

「小学生になったら、小学生になったら、トモダチ百人できるかな」というCMソングが

子供のいじめ自殺が浮上した頃に批判されて かれこれになる。

「トモダチノ トモダチモ、皆 トモダチダ」とか「人類は、皆、兄弟」で育った私と

「トモダチ地獄」で育った青年の「友達」に対する条件が違うのは自然なことで

関係性を「クラスメイト」「隣に座っている人」で表現すれば、よかった。

 

私にとって「知り合い」と「友達」の差はわずかだ。

知り合いです、というのは、排他的な言い方ではない。

「友達」と「友人」の隔たりはどうだろう?

「友人」と「親しい友人」の差はどうだろう?

さらに「恩人」は多い。

特におしゃべりしなくても「働く仲間」「ボランティア仲間」「学ぶ仲間」の存在もある。

その親密度や距離感は年々、月々、刻々と変わるし、

交流の深さや頻度、共有した出来事の大小で異なるのは確かだ。

私の感じる親密さと 相手の評価が一致することは少ないと想う。

本日における真の関係性を評価できないため

誰でも、とりあえず「友達」と称するのが 私にとっては 便利なのだ。

 

 


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