笑顔浴

優しい時間

お茶でもいかが?

2011年05月06日 | Weblog

勉強しろというと、勉強しないという。

勉強するなというと、勉強させろという。

学生達も、他人に支配されたくないのでしょう。

「したら しただけ、寝てたら それなり。 どうするかは自分で考えろ」と私は学生に伝えますが、

国家試験の高合格率を維持したい担任の先生には考えられない無責任な発言です。

 

さて、ビルの屋上で 今、まさに飛び降りようとしている人に 警察官が声をかけています。

「死ぬな!死んではいけない」と詰め寄ると、「近寄るな、絶対に死ぬ!」と応える。

「やめろ、考え直せ」と説得すると、「これしかない、絶対にやめない」と応える。

そこへ、たまたま お掃除のおばちゃんが通りかかってしまった。

「死ぬほど追いつめられて、あんたもかわいそうになあ~。
 死ぬ前に、あたたかいお茶でも飲んでゆくかい?」と声をかけたら

「はい」と素直に降りてきたという 実話があるらしい。

 

自殺抑止が仕事である警察官や、生きててほしいと強く願う家族

自死は悪だと執着する人には思いもよらないセリフ。

その人の生死に直接関係がない 通りががりの他人だからこそ

死ぬのも生きるのもあなたの自由で、どっちでもいいし、

私には関係がないのでという無責任なスタンスで関われるのですね。

けれども お茶やお菓子や優しいもてなしが、張り詰めた心に隙間を作り

ガチガチの「~であるべきだ~せねばならない枠」を少し緩めたようですね。

 

 


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人生の危機

2011年05月06日 | Weblog

5月2日~5日は3日間の集中講義でした。
9時過ぎに駐車場に到着し、建物に向かって歩くと
ジャスミンやつつじの甘い香りに包まれました。
初夏です。
玄関の横に新聞紙が敷いてあったので
見上げると巣で若いツバメの夫婦がくつろいでいました。
オハヨ~

3日目の昨日は、人生の危機や危機介入がテーマでした。
最初に、今までの危機的状況と、その後の経過を思い出し
その時の気持ちも思い出しました。
私達は、幼児の頃から沢山の危機に遭遇しています。
現在、笑って語れる危機は、生きる方法を学習できた危機。
思い出すと混乱する危機は、今も脱していない危機かもしれません。

例に「迷子」のお話がありました。
迷子の3歳の子供は泣き叫ぶ以外に何もできません。
恐怖と不安で思考が止まり、名前も言えません。
やがて周りの人々が保護して探していた家族に戻されます。
親子にとって強烈な思い出になるとともに
泣けばなんとかなる!とか、助けてくれる人がいると学習できます。
小学生になればもっと知恵がつき、自ら交番を訪ねるでしょう。

私も時々迷子になりますが、迷子になったからといって今は泣き叫びません。
どうすればいいか考えて行動できるからです。
「どうしたらいいか、わからない状態」を危機と呼び
「どうしよう」と考える状態はすでに危機を脱しています。

「迷子」の危機は乗り越えられても、
更に困難で、経験のない危機が 新しい危機として現れます。
新しい学習のチャンスでもあるのですが
危機の下の現実が苦しすぎると、その場から逃げたかったし
このまま消えることができたらどんなに薬だろうと感じました。
心身症のような身体症状も体験しましたが
これまでのどの危機も、周囲の人の支援によって乗り越えられたので
なんとかなるという、楽観的な考え方ができるようになったのでしょう。

「絶体絶命」の危機も、パニック状態から早く脱し、
どうしようかと考え始めることが重要だと知っておくことが大切で
相談者が冷静さを取り戻すためにも、
相談員が感情に飲み込まれないように注意したいと思いました。


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