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ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

アイス・ブリンク

2010年10月21日 14時00分08秒 | 書籍
Ice Blink: The Tragic Fate of Sir John Franklin's Lost Polar Expedition
クリエーター情報なし
Wiley


北極のフランクリン隊関連の資料として、クックマン「アイス・ブリンク」という本を読む。アマゾンにレビューがたくさん書かれていたので、一応、購入。それにしても私はアマゾンに毒されている。

フランクリンの探検隊は壊血病対策として缶詰食料を大量に持ち込んだ。だが、缶詰工場が衛生面で非常に問題があり、探検中にボツリヌス菌が発生。それが隊を全滅に導いたというストーリーである。なかなか感心させられる指摘であったが、推測と事実がごっちゃになっていて、どこまで話を信用していいのかよく分からない。この隊の軌跡はほとんど分かっていないのだが、筆者は自分の想像を地の文で事実のように書いている。ノンフィクションというより、小説といったほうがいい。おまけにめちゃくちゃ読みにくい英語だった。

本日、チャールズ・フランシス・ホールの「第二次北極探検記:1864-69」など分厚い英書4冊が届く。ホールのこの本はフランクリン隊に関するエスキモーの証言がふんだんに盛り込まれており、資料としては一番価値がたかい(らしいことを最近知った)。首をながくして待っていた本である。

ただ問題は、645ページもあることだ。大学の時に一度も開かずに終わった経済学の教科書なみに厚い。いつになったら読み終わるのだろう。



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グーグル革命の衝撃

2010年10月18日 11時43分15秒 | 書籍
グーグル革命の衝撃 (新潮文庫)
NHKスペシャル取材班
新潮社


部屋の未読本コーナーに積んであった一冊「グーグル革命の衝撃」(NHKスペシャル取材班)を昨晩、一気読み。

グーグルが日本に上陸してから、ずっと私はグーグルのユーザーであったが、グーグルが決める検索順位のランクづけが社会に大きな影響を与えている現状には不気味なものを感じていた。若干、情報の古い本であるが、グーグル=現代の情報革命がどこに向かって進んでいるのか、もやもやとしていたことがよく分かる。

グーグルのビジネスモデルは個人の検索動向を把握することで、それぞれの個人の指向にあった、「的確」な広告を検索結果に連動させ、大きな広告収入の手に入れるというものだ。行きつく先はどうなるかというと、ジョージ・オーウェルが「1984年」で描いたような不気味な管理社会。オーウェルは当時、台頭していた共産主義が進行した結果としてビッグブラザーによる監獄社会を描いたが、すべての個人の消費動向を把握しようとするグーグルの目指す理想社会も、同じような結果をもたらすと同書は指摘する。

そういう意味では、最近の中国政府VSグーグルのバトルも、言論の自由を認めない伝統的、強権的な中国の共産主義的管理社会と、それとは正反対の資本主義社会から飛び出した、一見自由であるが、密かに個人の管理を進行させるグーグル的情報社会の激突とみれば、興味深い。いずれにしても私たちの未来は、国家か企業かに監視された窮屈な社会しかないらしい。

この本では、インターネットで安易に情報が入手できるようになったことの弊害もきちんと指摘されている。何かについて知りたいと思った時、インターネットがなかった時代は図書館に行き、資料を調べ、人に会って話を聞き、現地に行き現場を見るといった一連のプロセスが必要だった。そうすることによって、事前の予想とは異なる現状、今まで興味はなかったが調べてみると面白かったことなど、様々な寄り道が生じて、人間の知識に厚みが出た。しかしインターネットによる検索はピンポイントで知りたい情報が手に入ってしまう。合理的で便利だが、知りたいことしか知らない人間が増える。その結果、余計な知識や厚みのない薄っぺらな人間ばかりができあがる。グーグルにより検索機能がますます便利になるにつれ、社会や人間から面白みが失われていく、というわけだ。

困ったことに、みんなそれに気づいているのだが、便利だからグーグルを使ってしまう。かくいう私も相変わらずヘビーユーザーで、時々、検索ボックスに自分の名前を打ちこんで、日本社会における角幡唯介のポジションを確かめてみてしまったりする。アマゾンにもどっぷりはまっており、あれを買え、これを買えと、毎日うるさくメールが来る。

そういえばこの本も、アマゾンで買った。万歳!

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サードマン

2010年10月14日 12時10分41秒 | 書籍
奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」
ジョン ガイガー
新潮社


ジョン・ガイガー「奇跡の生還へ導く人 極限状況の『サードマン現象』」を読む。ヒマラヤや極地や大海原に挑んだ探検家や冒険家の中には極限状況に直面した時、自分とは別の人間がそばにいて、助けてくれる「サードマン現象」という不思議な体験をする人がいるという。南極のエンデュアランス号漂流で有名なシャクルトンは、最後にサウス・ジョージア島を横断する時に、仲間の三人以外の四人目の存在を感じていたし、史上最強の登山家ラインホルト・メスナーはナンガパルバットで弟のギュンターを失った後、同じような体験をしたという。極地のように環境が外界と隔絶されており、風景も動作も単調で、刺激のうすい日々が長期間続くと、サードマン現象を体験しやすいという。

興味深かったのは、探検家や冒険家によるこうした体験と、宗教の始まりの間には、なんらかの共通点がありそうだという指摘である。山野井泰史さんも言っているように、極限的な冒険は精神的な要素が強い行為である。現在だと、こうした現象を体験しても脳認知学や神経学、心理学による解釈で説明を試みるだろう。しかしもし、初期のキリスト教の修道士やチベット仏教の隠者が山岳や洞穴で瞑想中にサードマン現象を体験したら、そこに神や天使の姿を見るはずだ。つまり現代の探検家や冒険家が体験している状況は、世界の真理を見つけるために荒野に向かった昔の修道士や行者の体験に近い、ということである。

かくいうわたしも、チベットのツアンポー峡谷を長期間、ひとりで探検している最中、あれは心身ともに衰弱しきった22日目のことだっただろうか、険しい岩壁をロープで下り、せまい岩場のテラスで一息ついた時、右奥のほうに白いぼんやりとした人間の形をした「存在」を、たしかに……感じなかった。正直言って、この本を読んで残念だったのは、自分がサードマンを見られなかったことである。確かな存在感があり、安らぎを感じさせてくれ、生きのびるためにはどちらにむかったらいいか、何をしたら教えてくれる、それがサードマン。まったく信じがたい話であるが、どんな感じがするのか非常に興味がある。一度でいいから体験してみたい。

ちなみに著者のジョン・ガイガーは、最近読んだ極地ものの英書、「Frozen in Time」の共著者でもある。なんだか、世の中せまいな、と思ってしまった。
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オオカミと人間

2010年09月28日 17時21分27秒 | 書籍
オオカミと人間
バリー・ホルスタン・ロペス
草思社

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バリー・ロペスの「オオカミと人間」を読む。マーク・ローランズの「哲学者とオオカミ」やコーマック・マッカーシーの著作など、最近感銘を受けた本の多くがオオカミがらみだったこともあり購入。期待にたがわない素晴らしい本だった。

赤ずきんちゃんや三匹の子豚といった寓話に象徴されるように、オオカミは西洋社会において、悪魔が乗り移った忌避すべき邪悪な生き物として扱われてきた。オオカミは野性に住む自立した生き物に過ぎないのに、人間により過度に現実離れしたイメージが形づくられ、それが原因で、とりわけアメリカ合衆国では取り返しのつかない大殺戮が平然とおこなわれた。

この本では科学的見地からみたオオカミの生態、インディアンやイヌイットなどオオカミとテリトリーを同じくする人々における関心、アメリカ大陸でオオカミはなぜ殺されたのか、神話や中世の西洋社会においてオオカミが果たした役割、などがひと続きの物語となって語られている。もちろん主題はオオカミだが、一貫して人間について書かれた本だともいえる。オオカミに象徴される自然に対して、欧米人が歴史的にどのような態度で臨んできたのか、自然を文明と敵対する荒野と決めつけ、いかにオオカミがそうした人間側の獣性の生贄とされてきたのかが深く理解できる。私たちは一体どのように自然へ対処したらいいのか、正義や主義で貫かれた安っぽい自然保護本やエコロジー関連の書籍に目を通すより、よほど深く考えさせられる。

バリー・ロペスには「極北の夢」という著作も翻訳されている。知識と考察が深いうえ、筆致には抑制がきいていて、それでいて感性の豊かさを感じさせてくれる。事実はよく取材されており、見識ある結論にはついつい納得させられる。

なんだかグルメ本の料理紹介みたいなことを書いてしまったが、要するに、こちらも素晴らしい。北極について書かれた一番素晴らしい読み物だ。

極北の夢
バリー・H. ロペス
草思社

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平原の町

2010年09月26日 10時02分23秒 | 書籍
平原の町 (ハヤカワepi文庫)
コーマック マッカーシー
早川書房

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越境 (ハヤカワepi文庫)
コーマック・マッカーシー
早川書房

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コーマック・マッカシー「平原の町」を読む。「すべての美しい馬」「越境」と続く国境三部作の完結編だ。「馬」の主人公ジョン・グレイディがメキシコの若くて美しい売春婦に恋をし、結婚を決意するが、そこに売春宿の経営者エドゥアルドが立ちはだかる。

これで日本語に訳出されているマッカーシー本はすべて読んだが、この本が最も読みやすくて、リーダビリティーという点でも一番だと思う。マッカーシーの訳本は、句点をほとんど省き、会話文でもカギかっこを使わないという独特の文体で書かれているため、最初は非常にとっつきにくい。しかし「平原の町」は会話が多くテンポがいいこと、ストーリーがまっすぐで分かりやすいこと、マッカーシー作品を特徴づける神話的で重いエピソードが比較的少ないことなどから、スイスイ読める。

マッカーシー本の通底に流れる基調は、人間の生が生としてあった失われた時代に対する郷愁だ。わたしたちは死、つまり生がある一定の時間の枠内に制限されているという事実により、価値や行動基準が潜在的に規定されており、そのことに対する絶対的な了解が根底にある。アメリカ的な社会と対比されるメキシコや、「越境」におけるオオカミに象徴される野生、あるいはインディアンの先住民族社会には、アメリカで失われつつある「生」がビビッドである社会が残っており、主人公はそうした世界との交流を通じて生きることの意味を知っていく。マッカーシーが現代社会を舞台にした小説をほとんど書かないのは、誰もが反論しにくいような分かりやすい正義、世界は良くなるという楽観的な進歩思想に漂白された薄っぺらな今の世の中には、本物の生は存在しなくなったと考えているからだと思われる。

国境三部作の中では「越境」が最もマッカーシー的で重厚感がある。主人公のビリーは罠にかかったオオカミを助けることから、人生の新たな一歩を踏み出し、旅を始めるが、その中でオオカミは自然の摂理が支配する、人間が忘れた世の中の秩序を知った存在として描かれている。真理を象徴したかのような警句的なエピソードや文言が豊富にちりばめられており、読むのに時間はかかるが、読後感もすごい。聖書を読んでいるみたいな本だ。

「平原の町」でジョン・グレイディが恋をしたのが売春婦だったのは、何かメタファーが隠されているのだろうか。それは不明である。しかし、20歳の頃、ブラジルのある田舎町で、若くてむちむちとした、若干ロナウジーニョに似ていなくもない健康的売春婦ジョイスに恋をし、日本に連れて帰って結婚しようと考えたことのある私としては、ジョン・グレイディの気持ちが少しわかる、とだけ言っておこう。
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frozen in time

2010年09月20日 14時06分37秒 | 書籍
Frozen In Time: The Fate Of The Franklin Expedition

Greystone Books

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来年の北極探検に向けて、本格的に英語資料を読みあさり始めた。手始めに読んだのが「Frozen in Time」。19世紀中旬、ヨーロッパとアジアを結ぶ幻の北西航路発見を目指し、行方を絶ったジョン・フランクリン探検隊についての本である。フランクリン隊の行方は1859年、マクリントックの探検隊により、129人全員死亡という最悪の事実が判明した。極北カナダのビーチェイ島にはフランクリン隊の三人の墓が残されており、1980年代にある科学者がその遺体を発掘した。この本はその時のノンフィクションである。彼らはX線撮影などで遺体の死因を特定し、フランクリン隊に悲劇が襲ったのはなぜかを解き明かしている。表紙はその時に発掘された隊員の死体。本の中には他にも死体の写真がごっそり掲載されている。冷凍保存されていたため、死後約140年経っているとは思えないほど、肉体組織はピチピチしていたという。

個人的には次は北西航路をテーマに本を書きたいと思っている。北西航路とは何か? その話は長くなるのでまた次に回すとして、こうした本で役に立つのは実は巻末資料である。近年のノンフィクションや雑誌に掲載された調査結果(フランクリン隊がなぜ遭難したのかは極地探検史上、最大の謎といわれており、今でも物好きたちが熱心に調べている)だけではなく、約150年前のマクリントックの探検報告や、引き続き行われたアメリカのチャールズ・フランシス・ホールやフレデリック・シュワトゥカ(マニアック過ぎますか!?)などによる、当時のショッキングな資料名も分かる。

世の中便利になったもので、容易に手に入りそうにないこうした古い英語資料も、今の時代、アマゾンで適当に検索してみたら見つかってしまったりするから恐ろしい。アメリカのどっかの大学の出版部が復刻版を出しちゃったりしているわけだ。うわー、これも買える、あちゃーこれもある! などとつぶやきながら、必要そうなのはガンガン購入。気づいたら八冊も購入していた。12月ごろに船便でどっさり届くらしい。まったく困った時代である。

極北で (新潮クレスト・ブックス)
ジョージーナ ハーディング
新潮社

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ついでにジョージーナ・ハーディング「極北で」も読む。これは400年前の航海日誌をもとにしたという小説。魂の救済を求めたのかどうか知らないが、捕鯨船を下船し、グリーンランドの島でひとり越冬した男の物語である。文章が非常に美しいので読めるが、ちょっと美しすぎる。主人公は越冬した後、アザラシにバイオリンを弾いて涙を流すのだが、そんな不気味な奴はこの世にいない。北極の本質はやっぱり、129人が死亡する、闇夜と死に支配された恐怖の大地でしょう。

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俺俺

2010年09月05日 22時45分18秒 | 書籍
俺俺
星野 智幸
新潮社

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星野智幸「俺俺」を読んだ。以前、朝日新聞で中島岳志が絶賛、知り合いからも薦められ、気になっていた本だ。出だしの数ページを読んで、面白そうなので購入した。

タイトルの通り、オレオレ詐欺の話から始まるが、オレオレ詐欺のエピソードは物語の本質とはほとんど関係ない。オレオレ詐欺がきっかけで別の俺の存在を知った俺は、そのもう一人の俺ととりあえずの役割分担をするため、携帯電話のアドレス帳に俺の名前をもう一人の俺に登録させる形で、自分の名前をゆずってしまう。ここから話は急展開し、次第に俺を俺たらしめていた人間関係や存在基盤がだんだんと揺らいでき、俺がはたして何者なのか訳が分からなくなっていく。

読んでもわけのわからない人は、本を読んでみましょう。

土日は小川山でクライミング。全然登れなくてショックを受けた。最近、フリークライミングに行くたびにショックを受けるので、もう行かないほうがいいのではないかと考えている。
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神話の力

2010年08月26日 10時06分41秒 | 書籍
神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ジョーゼフ キャンベル,ビル モイヤーズ
早川書房

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ジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」(ビル・モイヤーズとの対談)を読んだ。非常に中身の濃い内容に圧倒された。書いてあることは、死によって与えられる生の意味、またそれによって秩序だてられた社会の原動力、真理といったものは、神話を読むことによって読み説くことができるということ、かな。

小説と評論とジャンルは違うが、最近、傾倒していたコ―マック・マッカーシーの世界観と極めて近いような気がする。やっぱりマッカーシーが一連の作品で描いていたのは、極めて神話的な世界であったということが分かった。アメリカ先住民の話が頻出することも共通している。

冒頭のモイヤーズの序文に紹介された極北カナダのイヌイットの言葉に、とりあえず一発頬をぶたれた気がした。「唯一の正しい知恵は人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなかに住んでおり、人は苦しみを通じてのみそこに到達することができる。貧困と苦しみだけが、他者には隠されているすべてのものを開いて、人の心に見せてくれるのだ」

私がツアンポー峡谷の無人地帯でうっすらと感じたことは、イヌイットの偉いシャーマンと同じだったらしい。さらにいえば、キャンベルは昔の民話や本を読みまくることで、同じような境地に達したという。

キャンベルは、本を読みまくらなかったら生きている意味など分からないと何度も言っているが、その通りかも。まったく、山の中で死にそうな目に会うくらいなら、神話を読んだほうがよっぽどマシである。


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ブラック・ダリアの真実

2010年08月18日 13時06分23秒 | 書籍
ブラック・ダリアの真実〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)
スティーヴ ホデル
早川書房

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久しぶりに事件もののノンフィクションが読みたくなり、スティーブ・ホデル「ブラック・ダリアの真実」を読んだ。いやはや、とんでもない本だった。

ブラック・ダリア事件は1947年にロサンゼルスで起こった有名な殺人事件。若くて美しい女性が腰から上下に切断されていたという事件の猟奇的な性格と、女性につけられたブラック・ダリアというネーミングの幻想的なイメージにより、米国でも最も有名な未解決事件となり、多くの作家やジャーナリストがあまたの作品を発表してきた。

この本は、LAの元刑事である著書がついに真相を解明といううたい文句だったので、読む前はてっきり、事件を担当した元刑事が自分が現役時代にこつこつと集めた証拠をもとに真犯人を類推する、という内容だと思っていたのだが、全然ちがった。

著書がつきとめた事件の真犯人が誰かは、かなり前半の部分で分かる。だが、まったく考えられない出来事や証拠が明かされ、そんな、まさか、まさか……、とページをめくる手がとまらない。夜中に読んでいたのだが、次々と突きつけられる事実の恐ろしさに、思わず背筋がぞっとした。トイレに行くのが少し怖くなり、小便をしながら思わず後ろをふり返った。

暑い夏の夜には、オススメの一冊。

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ロスト・シティZ

2010年08月08日 11時23分23秒 | 書籍
ロスト・シティZ~探検史上、最大の謎を追え
【著】デイヴィッド・グラン
日本放送出版協会

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「探検史上、最大の謎を追え」という扇情的な副題がついた、デヴィッド・グラン「ロスト・シティZ]を読む。アマゾンに消えた探検家パーシー・ハリソン・フォーセットの足跡と、彼が追い求めた伝説の古代都市「Z」についてまとめたノンフィクション。

資料をもとに過去の探検家のドラマと、自分で現地を探検したルポルタージュをリンクさせながら物語を進行させるという手法が、完璧にわたしのやり方とかぶっている。ニューヨーカー誌の才能豊かなライターが書くとこうなるのか、と非常に参考になった。

こういう本の向こうを張って、さらに上を行くには、自分が死ぬような目にあわなくてはならないということなのだろう。まったく困ったものである。
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父さんのからだを返して、など

2010年07月22日 23時47分12秒 | 書籍
屏風岩の後、取材で富山、京都、大阪をまわり、探検部後輩Sのクルマに便乗して小川山に行き、今週月曜に東京に帰ってきたのだが、みなさんご存じの通り、脳みその三分の一がとけるほどあつい。ものを書いたり、資料を読んだりなどして、これ以上脳内の血液循環を高め、熱交換作用を促進し、ヒートさせると、本気で熱中症の危険があるので、ここ数日はやむを得ず、人間としての社会的機能を停止させて部屋で寝そべっている。

その間、最近、やたら売れているというマイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」が部屋の未読本置き場に重なっていたので、読む。以前、NHK教育の「ハーバード白熱教室」をたまたま見て、面白かったので本も買ったのだが、買ったことを忘れていた。この本に関しては、各新聞書評、あるいはアマゾンレビューなどで盛んに取り上げられているので、そちらを参考にすると良いでしょう。個人的には、わたしはこれまで自分の道徳的立場を穏健なリバタリアンだと考えていたが、なんだコミュニタリアンだったのか、と認識を一変させられた。道徳や政治哲学について、普段たいして何も考えていないので、目を開かせられたということである。

その他にもう一冊、ケン・ハーパー「父さんのからだを返して」を再読した。北極探検史の裏話的な秘話についての本であり、北極点を初到達したことになっているアメリカの探検家ロバート・ピアリーが1897年に北極から連れて帰ってきたイヌイットの少年ミニックの悲劇的な人生をつづっている。ミニックの父キスクはアメリカに連れてこられた後、間もなく死亡。ニューヨーク自然史博物館の関係者はミニックの前で父を遺体を埋葬したように見せかけたが、実はそれは偽装で、父の遺体は博物館に標本として保存されていた。それを知ったミニックは遺体を返してほしいと何度も懇願するが、その願いは聞き入れられなかった。



当時の探検家の非人道的な振る舞いに怒りで肩を震わせ、ミニックの物悲しく、過酷な人生に涙する、というのがこの本の正統的な読み方であるが、それはさておき、北極探検史に興味を奪われているわたしとしては、1909年に起きたピアリーとクックの北極点初到達論争についてのべたミニックの意見が興味深い。当時、ミニックはアメリカから故郷であるグリーンランドに戻っており、ピアリーとクックについての北極のイヌイットたちの評判を、次のように手紙に残しているという。

……ここの人びとは誰も、ピアリーが一行と別れたあとそれほど遠くまで行ったとは思っていません。ここでは、ピアリーの名前はその残酷さのために憎まれています。クックは北極点を目指してすばらしい旅をしましたが、ここでは証拠になるようなものは何も見つかりませんでした。クックは誰よりも近くまで行ったのでしょうが、北極点はまだ発見されていないのだと思います。クックは人びとに愛されています。エスキモーはみなクックのことをほめていて、クックがピアリーに勝って栄光を手にすることを望んでいます……

もちろんミニックはピアリーにより人生をめちゃくちゃにされた被害者なので、加害者であるピアリーを憎むのは当然である。しかしだとしても、ピアリーはどんな本にも、傲慢で独善的な人物として描かれているのはなぜだろう。ピアリーというのは実に心が広く、イヌイットたちの心をつかんだすばらしい探検家である、と書いているのはピアリー本人の著書だけだ。北極を自分の領地だと考え、イヌイットを所有物だとみなし、北極に近づく他の探検家にかみつかんばかりだったという彼のマナーの悪さは際立っていたようだ。それに比べて、論争に敗れ歴史的にペテン師との烙印をおされたものの、クックという人物はあまり悪く書かれることはない(今まで読んだ本では)。

前にも書いたが、この論争は今に至るまで真相は分かっておらず、実に興味深い。19世紀に129人全員が死亡したジョン・フランクリンの北西航路探検隊と同じくらい興味深い。興味深い、興味深い、いやー興味深い、とそんな思いが高じてしまい、ついつい、Robert.M.Brice COOK&PEARY なる本をアマゾンドットコムで購入し、はるばるアメリカから船便で送ってもらった。

だが、届いたのはいいものの、なんと総ページ数1133、厚さ65ミリという、実に雄大な英書であった。本というより、広辞苑に近い。




こんなもんは、読めない……。もはや北極に行くしかないな。

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完全なる敗北

2010年06月22日 09時10分57秒 | 書籍
極地関係の資料を探していた時、ヒュウ・イームズ「完全なる敗北」(文化放送)という本を日本の古本屋のサイトで見つけ、何の本かよく分からず購入した。読んでみると、この本、1908年に北極点に初到達したと主張し、認められず、ペテン師として社会から葬り去られたアメリカの探検家フレデリック・クックの伝記だった。

北極点の探検史を簡単に説明すると、一応、アメリカの探検家ロバート・ピアリーが1909年4月6日に初到達したとされている。しかしピアリーが帰国する途中、同じく北極点を目指していたクックがピアリーの一年前に到達したと発表したことから、どっちが先だったのか大論争に発展した。ピアリー北極クラブというエスタブリッシュメントからなる後援組織をもち、ナショナルジオグラフィック、ニューヨークタイムズというマスコミも押さえていたピアリーに対し、クックはほとんど個人による裸一貫の探検だった。結局、クックはピアリー陣営から記録は偽造であるとする攻撃を受け、論争に敗北。1906年のマッキンリー初登頂も虚偽だとされ、その後は石油会社を経営したが、ありもしない情報で金を集めたと刑務所にぶち込まれ、不運な人生を歩んだ。

クックの北極点への旅は、北グリーンランドからカナダ極北部のアクセルハイベルグ島を経由し、二人のイヌイットとともに北極海を犬ぞりでのぼるという、約7000キロにも及ぶ壮大なものだった。その間、村はひとつもない。彼の観測記録はいろいろな事情で失われてしまい、それもありこの記録は認められなかった。

クックが本当に極点まで行ったのかは永遠に不明だが、かなり近づいていたことはあり得ると個人的には思う。実はピアリーの極点到達も達成当初から怪しいと思われていたが、彼は持ち前の政治力と押しの強さで初到達の栄誉を勝ち取った。しかし近年になっても、ピアリーの北極点到達はなかったとする論調はアメリカで依然つよく、とりわけワシントンポストは彼の記録に疑問を投げかける記事をしつこく掲載している。

要するにクックもピアリーも、極点到達に関しては同じレベルの根拠しか持ち合わせていなかったということだ。クックはペテン師という烙印が押されてしまったため、歴史的にも評価されていないが、探検家としての実力は超一流だったという。そのことは、クックと一緒に南極を探検したことのある大探検家のアムンゼンが「ユア号漂流記」の中で、彼の実力を持ちあげていることからも分かる。「完全なる敗北」によると、アムンゼンは晩年、刑務所の収監されたクックと面会し、その後の記者会見で「クックは天才であり、アメリカ市民の尊敬に値する。彼は北極点を発見しなかったかもしれないが、それはピアリーにしても同じことであり、クックの主張にはピアリーのそれと変わらない説得力がある」と述べたという。

ピアリーとクックの北極点初到達論争は、非常に面白い物語を今にいたるまで提供している。アメリカでは多くの本が出版されているが、日本ではこの「完全なる敗北」という本しか翻訳されていないようだ(もちろん、今は絶版。読みたい人は古本で)。面白い本ではあるのだが、筆者がクックに肩入れしすぎていて、やや客観性にかけている。資料の出典がないことも、本の信用性を低めている一因だ。近年、アメリカで相次いで出版されているピアリー対クック関係本を、どこかの出版社が翻訳してくれないだろうか。
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哲学者とオオカミ

2010年06月16日 22時03分23秒 | 書籍
朝日新聞の書評で石川直樹が書いていた、マーク・ローランズ「哲学者とオオカミ」(白水社)を読んだ。ペットとして購入したオスのオオカミのブレニンとの生活を軸に、最終的には人間が生きる意味はどこにあるのかを哲学的に考察した本である。

べつにオオカミとの生活ぶりを紹介したわけではなく、ブレニンの行動を通じて気付いたことや知見を、非常に分かりやすい言葉と例で展開している。彼がそれまでの構築してきた哲学が、一匹のオオカミの存在によって覆されていくダイナミズムが面白い。時間という概念との絡みで語られる人間の「生」の意味は、ブレニン=野生の存在なくしては発見できなかった。彼が最後に到達した生きることの意味は、個人的には、なるほどそうだよなと、非常に納得させられ、ラインマーカーをいっぱい引いてしまった。

彼がブレニンと生活していた10年間は独身で、つきあう女性を性のはけ口としか認識しておらず(自分でそう言っている)、人嫌いだと公言し、ごうまんで、孤立した環境で著作に専念する、要するに社会性がやや欠如した人間だったらしい。その間、彼はオオカミを見ながら生きることについていろいろ考え、ある結論に達したわけだが、しかしさらに最後に、さらなる展開が、ささやかだが待っている。

うーん、そうか。結局そうなのか。いやあ、そりゃそうだ。

気になる人は読みましょう。いい本です。


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北極潜航

2010年06月05日 20時14分58秒 | 書籍
雑誌に極地関係の記事を書くため、現在、過去の探検記に再び目を通したり、新たに読んだりしている(実にのんびりとした生活である。こんなことやっていていいのだろうか)。ナンセンやアムンゼン、シャクルトンの偉業は言うに及ばずであるが、今回、新たに読んだ本の中で面白かったのが、文藝春秋「現代の冒険5 白い大陸に賭ける人々」におさめられているW・アンダーソンの「北極潜航」。

1958年に米海軍原子力潜水艦ノーチラス号で北極海の氷の下に潜り込み、人類史上初めて、船で北極点に到達した時の艦長の記録である。時代は冷戦真っ只中、航海はもちろんソ連側の目を盗んだ極秘任務だった。6月に一度、太平洋からベーリング海峡を越えてチュクチ海に入るが、巨大な氷山に行く手を阻まれ失敗。7月に再挑戦し、ハワイから北極点を経由し、イギリスに抜けた。

冷戦という難しい時代に任務を帯びた軍人による記録とは思えないほど、文章は全体を通してユーモアに満ちている。横顔がジャン・レノに似たこの潜水艦長は諧謔精神にあふれていたらしく、読者を楽しませてやろうという姿勢が徹底している。

「北極を通過するときといっても、べつに鐘が鳴るわけでもなければ、なにかドスンというような音がするわけでもない。諸計器がどれだけ近くにきたかを知らせてくれるだけである」「北極に船が到達したのは有史以来はじめてのことであり、しかも、こんな多数――百十六人――が一時にあつまったのも史上初のできごとだ」

ほかにも、いささかふざけているとしか思えない文章が散見され、北極探検の記録とは思えない余裕を感じさせる。たぶん、肉体的な疲労や死の恐怖といった悲壮感がつきまとう人力による到達の記録とは違い、「艦内を温度摂氏二二度、湿度五〇パーセントという理想的な状態」に保ち、「乗組員たちは、数日間もこうした環境におかれていると、船に乗る身であることも忘れてしまう」くらい快適な船内環境下で達成された探検だったことが、ユーモアに貫かれたこの記録を可能にしたのだろう。原稿を書きながら、あ、面白い表現思いついた、とほくそ笑んでいる彼の顔が容易に想像できる。

「現代の冒険」シリーズは基本的に抄訳だと思われ、作品としては短い。1959年に光文社から単行本が出ているようなので、気が向いたら買おう。
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告白

2010年04月25日 01時02分29秒 | 書籍
朝日新聞、ゼロ年代の50冊の3位にも入っていた町田康「告白」。

すごい本だ。文庫で800ページを越える分量だが、見たことのない独特の文体で一気に読ませる。そして最後は洪水のような読後感。ラストの主人公の言葉は、重すぎる。

30分ぐらい読後感がひかず、頭の中がぼんやりとして、それが離れないので、しょうがないのでipodをがんがんかけながら、10キロほどランニングせざるを得なかった。おかげで運動不足も解消され、一石二鳥ではあった。

こういう圧倒的な作品を読まされると、自分が書いている文章があまりにも陳腐なような気がして、自己の存在意義を見失ってしまう。文章を書いている人は読んではいけない本である。

いいなあ。天才って。
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