東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鐙坂

2012年11月23日 | 坂道

鐙坂下 鐙坂下 鐙坂下 周辺地図 前回の菊坂下通りをさらに北西に歩き、左折して進むと、鐙坂の坂下である。坂下は広いが、突き当たりを左折すると、一枚目の写真のように、狭い坂の上りとなる。

二、三枚目は坂下から坂上を撮ったものであるが、細くかなりの勾配がある。右側に石垣が続き、左側に塀と住宅が道に沿ってできているので、いっそう狭く感じるが、いかにも裏道といった感じである。

四枚目の街角地図(上がほぼ南)からわかるように、前回の炭団坂の西側に位置し、これと平行に北から南へと上っている。

坂下は菊坂下通りに続く谷で、坂上が本郷台地である。炭団坂と高低差はほぼ同じと考えられ、比較的短いため急な坂になっている。本郷四丁目20番と31番の間である。

一、二枚目のように坂下左側に坂の標識が立っている。

鐙坂下 鐙坂中腹 鐙坂中腹 鐙坂中腹 一枚目の写真は坂下からちょっと上って撮ったもので、二枚目はさらに進んで中腹あたりを、三枚目はそのちょっと先で振り返って坂下を撮ったものである。四枚目はさらに上側を撮ったもので、左側に立っている標識は、下三枚目の写真の金田一京助・春彦旧居跡の標識である。下四枚目の写真は、その標識のあたりから坂下を撮ったものである。

坂下に立っている坂の標識には次の説明がある。

「鐙坂(あぶみざか)
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
   文京区教育委員会 平成6年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 金田一京助旧居跡 鐙坂中腹 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)で、菊坂下通りを本妙寺坂の方から進んで一本目を左折した道筋が前回の炭団坂で、その次を左折した道筋がこの坂であろう。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも、本妙寺坂の方から進んで同様に左折する道筋が示されている。

近江屋板(嘉永三年(1850))にも尾張屋板と同様の道筋があるが、坂マークも坂名も記されていない。

上記の江戸絵図のいずれにも、この坂の道筋の右(西側)に松平右京亮の中屋敷がある。

『御府内備考』の本郷之一の総説にある説明は次のとおりかなり長い。

「鐙坂
鐙坂は御弓町より丸山へ下るの坂をいひ、往古この処に武蔵鐙を製し初しものゝ子孫ありて、鐙を作るゆへに坂の名とすといへり、【江戸誌】云、武蔵鐙は古き歌道の伝にして、旧記にも多く此事をのせたり、武蔵鐙とはいまいふ五六の鐙なり、【続日本記】云、元正天皇霊亀二年[716]五月辛卯、高麗の人一千七百九十人武蔵にうつすと見ゆ、かれらが内にて五六の鐙を初て造りけるより、当国の名産とはなれり、高麗郡は今の府中の辺なり、その子孫この所に住せしこと年ありといふ、按に武蔵鐙の事はさもありぬべけれど、それが子孫この所にありしといふに至りては、他の書にいまだ見ざる事にして甚うけあひがたし、例の好事のものゝ鐙坂といふにより、かゝる付会の説を唱へしなるべし、たゞ坂のかたちの鐙に似たるによりて土人かく名付しなるべし、【改撰江戸誌】」

御弓町より丸山へ下る坂とあるが、弓町とは、この坂の南のあたりである。この坂を下ると丸山であった(丸山に対し菊坂下通りの谷をはさんでこの坂の西側は上記のように左京山とよばれていた)。

坂名の由来について、武蔵鐙を初めて製作した子孫が鐙をこのあたりで作っていたからとあるが、改撰江戸誌は、他の書にはそんなことは書いてなく、付会(こじつけ)の説で、たんに坂のかたちが鐙(鞍の両わきに下げて足を踏みかけるときに使う馬具)に似ていたからとしている。

鐙坂上 鐙坂上 鐙坂上 鐙坂上 一枚目の写真は坂上近くから坂上を撮ったもので、二枚目はそのちょっと上から坂下を撮ったものである。三枚目はそのあたりで坂上を撮ったもので、ここを進めば春日通りの真砂坂上である。このちょっと先を左折すると、崖上を通って前回の炭団坂上に至る。四枚目はそのちょっと先でふり返って坂下側を撮ったものである。

『御府内備考』の菊坂町の書上には次のようにある。

「一鐙坂 長四拾間余 幅一間程
 右は本郷御弓町より菊坂町続大下水端え下る坂に御座候、此坂の形ち鐙に似候故相唱候由に御座候、」

ここでも形が鐙に似ているためとしている。鐙が下側で曲がるところが、坂下を右折すると狭い道が広くなる部分に似ているからそう呼んだのだろうか。これについて、横関は、昭和の初めころこの坂を訪れたとき、その形が鐙に似ていたと思ったが、その後、6,7年たってから尋ねたらコンクリートで舗装されてしまっていて、鐙に似た形は感じられなくなった、と書いている。
 (続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
北村一夫「江戸東京地名辞典」(講談社学術文庫)

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