東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

梨木坂

2012年11月12日 | 坂道

梨木坂下 周辺地図 梨木坂下 梨木坂下 現在の菊坂下を前回の胸突坂下へ左折する所から南東へ進むと、やがて、一枚目の写真のように左手に細い坂道が見えてくるが、ここが梨木坂の坂下である。二枚目の街角地図(上がほぼ南)からもわかるように、菊坂下から来て左折すると、かなり鋭角に曲がる。

この坂は、本郷五丁目7番と6番との間を北へ上る。二枚目の地図のように、坂上の先は胸突坂の坂上に突き当たる。

三、四枚目の写真は坂下から坂上側を撮ったものであるが、ちょっとうねりながら緩やかに上っている。道はかなり狭い。

この坂は、前回の胸突坂のように谷から本郷台地の西端へまっすぐに上るのではなく、崖をやや横切るように上るためか、胸突坂ほど急ではない。それでも中腹の上あたりでちょっと勾配がある。

梨木坂下 梨木坂下 梨木坂中腹 梨木坂中腹 一枚目の写真は坂下からちょっと進んでから、振り返って坂下を撮ったもので、坂下の菊坂の通りが見える。二、三枚目は坂上側を撮ったものである。四枚目は中腹から坂下を撮ったものである。

下の写真のように、坂上側に坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「梨木[なしのき]坂(梨坂)
              本郷五丁目6と7の間
「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、『紫の一本』の著者 1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本[なしのもと]と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は、菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。
 戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。
                    文京区教育委員会 平成18年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 梨木坂中腹 梨木坂中腹 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、菊坂町の町屋が三角形状になっているが、この底辺にあたる道筋がこの坂である。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも三角形状の区画(町屋ではないが)と、その底辺の道筋が見える。

近江屋板(嘉永三年(1850))にはこの道に「キクサカ」とある。

三、四枚目の写真は、中腹から坂上を撮ったもので、このあたりでちょっと勾配がある。

標識が引用している『御府内備考』にある梨木坂の説明は、本郷之一の総説にあり、かなり長い。以下、その全文である。

「梨木坂
梨木坂は菊坂より丸山通りなり、むかし大木の梨ありしゆへ坂の名とす、【南向茶話】云、戸田茂睡といへる隠者此処に卜居して、梨の木の茂睡といひて世に名高き人なりと、今按に茂睡の父を渡邊監物忠といふ、山城守重綱(或は茂綱に作る)に養はる、(重綱は大番の頭たり)実は戸田與五左衛門忠勝が二男なり、慶長五年上杉景勝御征伐の時、父がかはりとして組の大番衆五十人をひきい、十六歳にして供奉しその後父とともに伏見の御城を守る、後又駿河大納言忠長卿の家老となり、別に五千石を領し、かの卿の御事ありし時妻子とともに大関土佐守高増にあづけられ、かの領地下野国那須郡上の庄東山の西黒羽といふ所に閉居し、後赦をかふむりて子孫いまかの家につかふ、茂睡は忠が六男なり、父が実の名字戸田に改む、俗称八兵衛といひ、後茂右衛門とあらたむ、諱は恭光、年老て茂睡と称し、露寒軒と号す、寛永六年五月十九日、駿河国府中の城三の丸にして生る、いとけなきときより父とともに黒羽におれり、後江戸にいたり、和歌をよくするを以て時に名あり、詠ずる所の歌多く人々に膾炙す、宝永三年四月十四日卒す、七十八歳、或云、子孫御家人となり火消与力を勤む、これも家たへたりと、茂睡が庵の前に大なる山梨の木一もとありしにより梨木の本と云、是いまの梨木坂なり著す処の書梨本集、紫一本、隠家百首、鳥の跡、庄九郎物語などいふものありて、世の人もてあそべり、【改選江戸誌】」

梨木坂中腹 梨木坂上 梨木坂上 梨木坂上 一枚目の写真は中腹の上側から坂下を撮ったもので、ちょっとうねっているのがよくわかる。二、三枚目は坂上側で撮ったもので、ここに上記の坂標識が立っている。四枚目は坂標識から進んで坂上を撮ったものである。

上記の『御府内備考』(総説)の説明は、坂よりも戸田茂睡についての説明がかなり長くなっているが、これから、茂睡がこの坂に居住し、その家の前に大きな山梨の木があり、梨の木の茂睡として有名だったことがわかる。『紫一本』の著者である茂睡は、この坂を同著で次のように記している。

「梨木坂  本明[妙]寺の前の谷につきて、小石川へおり下る右の方の坂を云ふ。この坂より菊坂へも出る。このあたりは皆同心屋敷なり。」

この記述によれば、小石川へ下りる右の方の坂が梨木坂であるが、これについて横関は、本妙寺前の谷側へ菊坂(=胸突坂)と並んで下る右の坂といえばこの梨木坂である、というように解している。

ところが、石川は、この坂を、途中は鐙坂に接続し本郷四丁目11番と12番の間を北へ、菊坂の途中まで下る急坂で西側は真砂町台地の石崖である、とまったく別の所と考えている(菊坂は現在の道筋)。ここは、現代地図、上記の街角地図を見ると、現在の菊坂の西側で、鐙坂上側を左折し炭団坂に向かう途中の崖から下る所と思われるが、上記の『紫一本』の記述をもとにした解釈であろうか。異説である。この坂(階段)は現在ない。岡崎はここではなく上記の坂標識のある道筋としている。

『御府内備考』の菊坂町の書上には次のようにある。

「一なし坂 長貳拾[二十]間余 幅九尺程
 但此辺往古菊畑有之候処、此坂辺迄にて菊畑無之候故菊なし坂と申候を、いつの頃よりかなし坂と唱候由に御座候」

この記述によれば、菊畑はこの辺までしかなかったので、菊なし坂とされ、それから、なし坂と呼ばれるようになった。

梨木坂上 梨木坂上 梨木坂上 一枚目の写真は、坂上を撮ったもので、二枚目は坂上をさらに進んで撮ったもので、この突き当たりが胸突坂の坂上である。三枚目はこの突き当たりから振り返って坂上側を撮ったものである。

上記の『御府内備考』にある改選江戸誌の「梨木坂は菊坂より丸山通りなり」とは、この坂は菊坂から丸山通りであるといった程度の意味であろうか。ここで丸山通りとはどの道を指すのか。『御府内備考』の上記の総説に次の記述がある。

「丸山 菊坂町、台町、田町、新町及び小石川片町の辺みな丸山と呼べり、昔林など在てその形の円う成しより、まる山の名は起りしなるべし、」

上記の尾張屋板を見ると、この坂の東にある本妙寺に「此ヘン元々丸山」とあり、その近くに菊坂町、台町があり、現在の石坂の近くに小石川片町があり、本妙寺の現在の菊坂側に田町がある(近江屋板)。これらの本妙寺、菊坂町、台町、小石川片町などを含めた、谷から台地にかけた一帯を、森がこんもりと円くなっていたので丸山と呼んだ。これからただちに丸山通りの道筋を特定できないが、現在の菊坂の道筋を含めた通りのように思える。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
北村一夫「江戸東京地名辞典」(講談社学術文庫)

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