東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

大石内蔵助等切腹の地~泉岳寺

2012年06月21日 | 散策

大石内蔵助等切腹の地 切腹地石標 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 泉岳寺への近道 前回の葭見坂の坂下から坂上へもどり、すぐに左折し、ちょっと歩くと、一枚目の写真のように、左手に史跡らしきものがある。門で閉ざされているが、中は庭園風になっている。ここが忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助等十七名が切腹した地であるという。

ここに二本榎通りから来るときは、団地入口にある二枚目の石標が目印になる。今回は葭見坂上から来たが、この坂上からはかなり近い。団地の敷地の奥に位置し、静かなところである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、この切腹地を含む一帯は、細川越中守の中屋敷で、熊本藩細川家である。以前の記事のように、吉良邸への討入後、大石内蔵助等は、この高輪の細川家に預けられてここで切腹した。討ち入りの翌年、元禄十六年(1703)二月四日のことであった。

二本榎通りに出て左折し、ちょっと歩いたところで右折し小路に入る。四枚目のように緩やかな下り坂となっているが、ここが泉岳寺への近道である。

泉岳寺への近道 泉岳寺門前 赤穂浪士墓 赤穂浪士墓 上記の坂を下り、道なりに歩くと、一枚目の写真のように、かなり細い道になり、やがて、泉岳寺に着く。二枚目は門前を撮ったものである。

第一京浜にある都営浅草線の泉岳寺駅から歩いてくると、上り坂となって、そのまま道なりに歩くと、伊皿子坂であるが、最初の上りの後、左手に進むと泉岳寺の門前に至る。

上記の尾張屋板江戸切絵図に、細川家の近くに「義士四十七人ハカアリ」と記された泉岳寺が見える。近江屋板にも、万松山泉岳寺 義士四十七人ノ墓、とある。大石等の預けられた細川家からかなり近い。坂下は海沿いの旧東海道であり、むかしは江戸湾の眺めがよかったのであろう。

この寺は内が意外に広く、奥の方に歩いていくと、ちょっと小高くなったところに、三枚目のように、四十七士の墓がある。四枚目の正面(角のところ)にある大きいのが大石の墓である。 大石を含む十七名は、上記のように細川家に預けられたが、他の者達は、松山藩松平家に十名、長州藩毛利家に十名、岡崎藩水野家に九名が預けられて、各家で切腹した。墓の配置は、四家に預けられた者達毎に分けられている。

水野邸跡は泉岳寺駅の次の三田駅近くにある。松平邸跡は三田の綱坂の近くにあるイタリア大使館の敷地、毛利邸跡は六本木のテレビ局の敷地になっている。

この近くの聖坂の記事で紹介した功運寺は、中野に移って、萬昌院と合併して、現在、萬昌院功運寺となっているが、ここに、忠臣蔵の敵役の吉良上野介の墓がある。萬昌院は天正二年(1574)半蔵門の近くに開かれたが、吉良の墓はその寺にあったという。

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「お江戸探訪「忠臣蔵」を歩く」(実業之日本社)

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