東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

亀塚公園~元和キリシタン遺跡

2012年06月01日 | 散策

幽霊坂上と亀塚公園との間 亀塚公園近くの階段 階段上からの風景 階段踊り場から上 前回の桂坂上から二本榎通りを北に進む。この通りは高輪台地の山の尾根づたいにできた道で、東西の分水嶺になっている。

しばらく歩くと、しだいに下りになって伊皿子坂上にいたる。ここを右折し下ると、泉岳寺の門前であるが、そうせず、坂上を左折し、魚籃坂の坂上に至る。その近くを右折すると、まもなく左手に薬王寺が見えてくる。そのまま進むと、先ほどの二本榎通りと合流し、ちょっと歩くと、左手に幽霊坂上がある。一枚目の写真は、その坂上の先から撮ったもので、この先に亀塚公園がある。この公園から第一京浜に下ることができる。

公園の奥(東)へ歩いていくと、二枚目のように階段の上にいたるが、ここが第一京浜への近道である。谷側がちょっと見える(赤い車の辺り)が、かなりの高低差があることがわかる。

三枚目は、階段からの風景で、崖が見える。四枚目は、階段をまっすぐに下って、踊り場から上を撮ったものである。公園から崖にかけて緑がいっぱいである。

階段下から上 ビル裏手の丘 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 階段を下りてから、上側を撮ったのが一枚目の写真である。そこからさらに下りる階段があるが、そちらに行かず、御田八幡神社の境内に向かい、そこから第一京浜の歩道に出た。

歩道を左折し、ちょっと歩くと、ビルのわきから公園ふうのところが見えるので、そこに行ってみる。ちょっとした丘になっていて、その先は、台地の直下にできた崖である。二枚目はその丘を撮ったもので、斜面に芝桜が咲いている。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、海岸からちょっと入ったところに三田八幡神社があり、そのとなりに知福寺があり、近くの東海道から赤羽橋へ延びる三叉路に元札の辻とある。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にはその寺はない。近江屋板では忠福寺になっていて、同じところに、元札ノ辻ト云、とある。札の辻は、現在もこの近くの交差点の名になっている。

元和キリシタン遺跡 元和キリシタン遺跡説明板 エレベータ上からの風景 エレベータ上からの風景 丘の端に行くと、一枚目の写真の「都旧跡 元和キリシタン遺跡」と刻まれた石柱が立っている。そのわきに、二枚目の説明板がある。ここが元和九年(1623)にキリシタンが処刑された地である。

家光は三代将軍になったその年、十一月十三日(1623年12月4日)、キリシタン50人を火焙りの刑にした。この刑は放火などに係る者に限られていたが、キリシタンに最も重い罪科を課した。その刑のあと、そのまま、焼屍体は三日二晩、晒された。その場所が、札の辻、界隈の浄土宗智福寺の寺領内とされている。上三枚目の尾張屋板江戸切絵図にある知福寺である。一枚目の石柱の根元に、智福寺境内と刻まれているように見える。

キリシタン遺跡から南へ延びる道があるので、そちらに行くと意外なものが立っている。エレベータである(上の丘の写真に写っている)。これにのって上り、外に出ると、三、四枚目のように、そこは台地の端で、北東の眺めがよい。下を見ると、先ほどの芝桜のあたりが見える。高輪台地とかつて海岸であった谷との高低差がかなりあるようで、山の上にいる感じとなる。ここは、済海寺の裏手で、ここから先ほどの通りにもどる。済海寺は上記の江戸絵図にも見えるが、安政六年(1859)から明治三年(1870)までフランス公使館が置かれていた。

意外なところにエレベータがあったが、以前に階段でもあったのだろうか。そうだとしたらかなり急であったに違いないと思われるのだが。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)

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4 コメント

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殆ど使われなかった階段 (nabe)
2012-11-25 17:07:35
このエレベーターができる前にはこの場所に階段がありました。昭和30年代、坂上部分には浅野セメントの寮があり、その前には焼け野原で、ここから浅草の花火を見た記憶があります。下の元和キリシタン碑のあたりは鬱蒼とした谷間でザリガニ取りをしに行った記憶が残ってます。

この坂上に60年住んでいるものより。
コメントありがとうございます (asaichibei)
2012-11-25 23:40:34
nabe様

コメントありがとうございます。このブログのasaichibeiです。

やはりあのエレベータのあたりには階段があったのですね。

街歩きをしていると、大きな道路ができて旧道を分断したような所につくられた歩道橋に出くわすことがあります。これはその道を分断した補償と思われます。同じような理由からつくられたのでしょうが、エレベータははじめてです。

元和キリシタン遺跡の石柱のあたりは谷で、ザリガニをとっていたとのことですが、現在の風景からはまったく想像できないことです。およそ五十年ほどでかなり変わったということですね。

貴重なコメントありがとうございました。
このエレベーターが出来た理由 (Unknown)
2012-11-28 12:59:21
その昔この地は、プリンス自動車と都ホテルがありました。サラにその前は、浅野セメントの家族寮があり、昭和30年代には聖坂に通じる坂上にも寮があり、私のクラスメートもそこにすんでました。
従って上と下の所有者は一緒だったのでしょう。その後坂上の大部分は東急アパートに譲渡された模様、
ただし今は、月の岬エレベーターに通じる部分だけは、従来の所有者がそのまま確保していたのかもしれません。従って聖坂上の三田四丁目と第一京浜国道を結ぶ唯一の階段になっていましたが、あれ放題であった為、誰も利用しなくなってしまいました。
その後住友不動産のビル開発にあたり、地元の要望を受け入れ、住友側が作ってくれたものです。
いまは三田中学の生徒も含め地元は大助かりです。
コメントありがとうございます (asaichibei)
2012-12-22 21:18:24
このブログのasaichibeiです。
ビルを建てるとき不動産会社がその荒れ放題の階段のかわりにつくったとのこと、このエレベータができた理由がよくわかりました。その階段は、いまの地形から想像すると、かなり急だったように思われます。
月の岬エレベーターというのですね。おもしろい名です。
貴重な情報に感謝します。

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