東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

天神坂(高輪)

2012年06月13日 | 坂道

高輪一丁目階段上 高輪一丁目階段下 高輪一丁目 無名坂 高輪一丁目 無名坂 前回の洞坂から桂坂(新)上の交差点に出て右折し二本榎通りを北に進む。まもなく、左手に小路があったので入ると、一枚目の写真のように、狭い階段が西へ下っている。こういった階段を下ると、何処に続いているのかとちょっとどきどきしてしまう。高輪台地の西側で高輪一丁目である。二枚目は階段下側から上側を撮ったものである。階段下左側(南)のあたりは寺の墓地である。

階段下は突き当たりで、右折して進むと、三枚目のように無名坂の坂下にいたった。坂下から見て左側に階段がつくられているが、なかなかユニークである。四枚目は坂上から撮ったものである。高層マンションがよく目立っている。

二本榎通りから小路に入って狭い階段を下ったら、思いもかけず階段付きの無名坂に行きついたが、こういった坂との出会いもよいものである。

天神坂上 天神坂上 天神坂上 天神坂上 上記の無名坂から二本榎通りにもどり、次のT字路を左折すると、ちょっと広めの道が北西へ延び、平坦な道が続く。まもなく、下り坂になるが、ここが天神坂である(現代地図)。

一枚目の写真は坂上の手前から、二枚目は坂上にかなり近づいてから撮ったもので、坂上近くに立っている標柱が写っている。三、四枚目は標柱の坂下側から坂上側を撮ったもので、突き当たりが二本榎通りである。

標柱には次の説明がある。

「てんじんざか むかし坂の南側に菅原道真の祠(ほこら)があったためにいう。葭原が見えるので葭見(よしみ)坂・吉見坂ともいったという説もあるが北方の坂か。」

天神坂中腹 天神坂中腹 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) この坂は、一枚目の写真のように、まっすぐにかなりの勾配で北西へ下っている。二枚目は中腹から坂上を撮ったもので、かなりの傾斜があることがわかる。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))を見ると、二本榎通りを北~東北へ向かい、廣岳院の角を左折すると、北西へ延びる道筋があるが、ここがこの坂と思われる。坂下側の南に興臺寺(コウダイジ)、松久寺があり、さらに坂下の南には、加藤清正の位牌や像が祀られている清正公覚林寺がある。近江屋板もほぼ同様であるが、坂マーク△がある。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同様である。いずれにも坂名は記されていない。

三、四枚目の江戸絵図に、この坂の北側に道に沿って細く延びた三田南代地丁があるが、『御府内備考』(文政十二年(1829))の三田之三にある南代地町の書上に次の説明がある。

「一坂 登り凡貮丈五尺程  当町前通り中程より北之方え下り候坂ニ而当時者白金村畑ニ有之候場所往古葭野原に有之候よし右を坂上より見下し候ニ付里俗葭見坂と唱来候由申伝候」

御府内備考にもこの坂名はあらわれないばかりか、葭見坂という名がでてくる。上記の標柱にある別名はこの説明によるものであろうか。石川や岡崎や山野は、この坂のすぐ北にある別の坂を葭見坂とよんでいる。

天神坂中腹 天神坂下 天神坂下 天神坂下 一、三枚目の写真は坂下を撮ったもので、坂下の先に見える広い道は桜田通りである。ここを横断してちょっと進み、左折すると、日吉坂である。二、三枚目のように坂下にも標柱が立っている。二、四枚目のように坂下から坂を見上げると、かなり急に感じる。

横関は、この坂を旧丹波町の曹洞宗松久寺前の坂で、松久寺には天満宮があるとしている。これにこの坂名は由来するように思えるが、これ以上の説明はない。また、御府内備考のように、葭見坂をこの坂の別名としている。

『江戸名所図会』に、松久寺にあったという花城(はなき)天満宮が挿絵とともに紹介されている。

江戸名所図会 花城天満宮 左の図が花城天満宮の挿絵であるが、説明は次のとおり。

「花城天満宮 同所南の方にあり。松久寺といへる禅林に安置す。神体(御長三寸八分。)菅公の御作なりといへり。相伝ふ、仁和二年菅公四十二歳にならせ給ふ春、除厄の為に自ら彫刻し給へり。又云ふ、この像は延喜元年太宰帥に左遷せられ、彼地に至り給ふ頃、河内国土師里に存す御叔母君の方へ立ち寄らせ給ひ、御記念にとて奉せられし肖像なりとぞ。(文禄の頃、加藤家の臣山田氏某より当寺に安置し奉りけるとなり。)」

これによれば、松久寺にあった花城天満宮には、菅原道真の作と伝えられる御長三寸八分の神体が安置されていたという。

挿絵には、境内にある天満宮が描かれ、その門前に通行人とともに道が描かれているが、この道が天神坂で、このあたりは坂下ということになる。となりの光臺院が坂上側の高台に見える。坂下南には現在も光台院がある(現代地図)。

この天満宮が横関のいう天満宮で、天神坂という坂名は、この天満宮に由来するものと思われるが、上記の標柱にある菅原道真の祠とは、この天満宮にあったのであろうか、あるいは、その祠のあったところに天満宮を建立したのか、などと疑問がでてくる。

松久寺は道路拡張のため寺域を失ったので鎌倉に移転したという。

明治地図(明治四十年(1907))には坂下の桜田通りはまだないが、戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))にある。上記の道路拡張とは桜田通りの拡張のことであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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