東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

帯坂

2011年08月19日 | 坂道

二七通り(東から西) 二七通りから一口坂上方面 東郷坂上 帯坂上 前回の永井荷風旧宅跡のある二七通りを西へ進む。途中、荷風・お歌経営の待合「幾代」のあった旧三番町のあたりをうろうろしてから、通りに戻る。

左の写真は、その通りの西側を撮り、2枚目はその通りの交差点から靖国通りの一口坂上方面を撮ったものである。そこからちょっと歩き、次の信号が、3枚目の写真のように、東郷坂上である。左手(南側)に下り坂が見え、その先遠くに、行人坂(上り)が見える。

二七通りをさらに西へ進み、右側にある水道会館の先を右折すると、右の写真のように、帯坂の坂上である。細い坂道が緩やかな勾配でまっすぐに北へ下っている。坂下は靖国通りで、左折すると、JR市ヶ谷駅前である。この坂は以前に来たことがあるが、東郷坂上に近く、ちょっと意外な気がした。地図を見れば一目瞭然なのであるが。

帯坂上 帯坂上 帯坂上側 帯坂中腹 左の写真のように、坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(一六二四~一六四三)外堀普請の後に市ヶ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。」

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、市ヶ谷御門から南へ上る細めの坂道があるが、ここであると思われる。坂名はないが、坂マーク△がある。坂上の東西に延びる通りは表六番町通りといった。近江屋板も同様で、坂マーク△だけである。ところが、岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、ちゃんと、「ヲヒサカ」とある。これから、帯坂という坂名は、江戸時代に付けられたものであることがわかる。

皿屋敷は、お菊という女性の亡霊が皿を数える怪談話の総称で、播州(兵庫県)が舞台の『播州皿屋敷』や江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』など日本各地に類似の話が残っているという。

石川によれば、江戸の番町皿屋敷の伝説とは、寛文年中(1661~1673)に断絶した青山播磨という旗本の家で、召使のお菊が家宝の皿を割って、せっかんを受け、邸内の古井戸に身を投げて死に、以後、亡霊がたたりをなしたことで、これを岡本綺堂が脚色し、先代市川左団次の十八番となったのが「番町皿屋敷」であるというが、これは、大正になってからのことである。

帯坂中腹 帯坂下 帯坂下 帯坂下 『御府内備考』には切通坂として次のような説明がある。

「切通坂 三年坂のつぎの坂なり。市谷御門より表六番町へのぼる坂なり。【江戸紀聞】」

横関によれば、小山のようなところを切り通して道路を造った場合、これを切り通しと呼んだ。山を切り通して道路を造ると、どうしても、坂路となったが、これを切通坂といった。いま、都内に六つばかりの同名の坂があるというが、そのうちの一つである。

島崎藤村は、『春』で、明治時代のこの坂を次のように描いている。

「土手の尽きたところから、帯坂を上る。静かな陰の多い坂で、椿の花なぞが落ちている。片側には古い町がある。そこは岸本が気に入った坂で必ず通ることにしていた道路(みち)であった。」

藤村はこの坂を好ましく思っていたようである。

現在、坂中腹西側に日本棋院があるが、そこには石垣があって古めかしい雰囲気をわずかに醸し出している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
島崎藤村「春」(岩波文庫)

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