前回の善国寺坂(南側)下を右折し、坂下の谷道を東へ向かう。左の写真はその途中、西側から東側を撮ったものである。遠くに見える信号のところが次に向かう正和坂の坂下である。
谷道をちょっと歩くと、その信号の交差点で、ここを右折すると、正和坂の上りとなる。坂下から南へまっすぐに上ってから途中で右に少し曲がり、そのまま上っている。勾配は中程度だが、下側でややきつめである。
途中で左折する道があるが、これは次の正和新坂を横切って東へと延び、永井坂上へと至る。途中で曲がってから少し歩くと坂上で、そのずっと南側の先が新宿通りである。
この坂と次の坂は、善国寺坂と同じくはじめて訪れたが、地図でよく確認すると、南法眼坂の近くであることがわかって、意外な感じがした。
この坂には標柱が立っていないが、千代田区のホームページに次のように紹介されている。
「57.正和坂(しょうわざか) 千代田麹町小学校の北側を一番町の境まで下る坂です。太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の由来と関係があるかも知れません。なお、同小学校の東側の坂は正和新坂と呼ばれています。」
この説明からは、坂名の由来や歴史的背景がはっきりしない。
この坂をいつもの坂参考本で調べると、岡崎、石川にのっているが、説明が短く、その由来はよくわからない。横関にはリストアップすらされていない。山野は、坂名の由来は明らかでないとしている(次の坂も)。
坂名は伝えられてきたが、その由来は、いつの間にかわからなくなったということだろうか。
尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、善国寺谷坂の東側に、この坂と思われる道が、麹町四丁目と五丁目の間へと延びている。近江屋板には、坂マーク△が見える。
善国寺坂下からこの坂下に向かう途中で、谷道は左にちょっと折れ曲がっているが、この折れ曲がりが近江屋板によくあらわれている。近江屋板によれば、坂途中で左折し東へ延びる道と、ちょっと曲がり南へ上る道がいまの感じとよく似ている。その東への道は永井坂へと延びている(尾張屋板も同じ)。また、この坂を下り、そのまま北へ進むと、下の1,2枚目の写真のように、上りになるが、その道にも坂マーク△がある(尾張屋板にもあるが、例によって△のむきが逆)。
岡田屋嘉七板御江戸大絵図には、同じ道筋があるが、坂マークはない。
以上のことから、正和坂は、江戸から続く道と思われるが、そういうふうに紹介している解説はまったくない。実に不思議な感じがする。
『御府内備考』には、前回の記事にでた樹木谷(地獄谷)が次のように説明されている。
「裏二番町と五番町の間の小路をいふ。むかし此所へよるべなき者のたをれ死たる、或は成敗に逢たるものなど捨しなり。されば地獄谷といふ。世の人後にこの名を忌て、樹木谷とよぶ。これは此辺栗・柿・桜の木など多く有しゆへに唱へかよしといふ。【紫一本】」
裏二番町と五番町の間の小路とあるが、尾張屋板を見ると、坂途中で左折し東へ延びる道に、五バン丁とあり(ただし他の道にもある)、この谷道に平行な北側の道に、裏二番丁通とあるので、この谷道がやはり樹木谷(地獄谷)であろう。
ここにも、谷道から南へ上る坂と、1,2枚目の写真のように北へ上る坂がある。善国寺坂と同じように谷から南北へ上る坂があることから、台地が南北に分断された地形が続いていることがわかる。
正和坂上を南へ進むと、新宿通りの手前、麹町小学校の南わきに東へ延びる小路がある。そのあたりから振り返って正和坂上方面を撮ったのが上右の写真である。その小路がこの写真の右に写っているが、ここに入る。
小路の突き当たりを左折すると、正和新坂の坂上である。ほぼまっすぐに北に先ほどまで歩いていた谷道へと下っている。
しかし、この坂は勾配が一定でない。坂上からしばらく緩やかな傾斜が続いてから、ちょっと急になるが、その下側を正和坂の途中から延びてきた道が横切るため、いったん平坦になり、そこからふたたび下る。そこからもはじめは緩やかめであるが次第に傾斜がついてきて、坂中腹から下側はちょうどとなりの正和坂と同程度の勾配となっている。
この坂は、坂下で行き止まりで、となりのように北へ上る坂はない。
尾張屋板江戸切絵図、近江屋板には、この坂は見えない。そこで、明治大正地図を見ると、ここにもない。ただし、この坂の上側(正和坂の途中から延びてきた道の南側)の上4枚の写真の道に相当すると思われる道が見える。
戦前の正和地図を見ると、小学校の南の小路も含めていまのようにちゃんとあるので、大正~昭和のはじめごろにできたものであろうか。
以上のことから、正和新坂という坂名は、いまの坂の下側(正和坂の途中から延びてきた道の北側)部分が正和坂のとなりに新しくできたため、こうよばれるようになったのであろう。
石川は、正和坂について次のように説明している。「千代田区麹町二丁目の麹町小学校西側を一番町の境まで北下する坂で、同小学校の東わきを下る坂には正和新坂の名がある。坂名は諸書に見あたらないから、昭和になってつけられたものに思えるが、土地の古老に問うと、ずっと以前からあった坂名だといい、戦争中は正和会なる隣組を結成し、空襲下の防火活動に奮闘したそうである。」
また、石川によれば、坂下に正和坂の石碑があったらしいが、失われてしまったとある。
やはり正和坂の方は、江戸からあった坂であるので、由来は不明ながら古い坂であると思われる。
右の写真は、正和新坂下を右折してから、谷道の東側を撮ったものであるが、工事中のところを左折すると、南法眼坂下である。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)