東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永井荷風旧宅跡

2011年08月17日 | 荷風

前回の鍋割坂上から千鳥ヶ淵緑道にもどり九段坂上方面へ行くのもよいが、今回は、別の目的があったので、そうせず、内堀通りを横断し、歩道を北へ向かう。すると、下りとなり、ちょっと歩くと、左に二松学舎大学が見え、谷底の交差点に至るが、そこを左折する。(下の地図で、きんでんと公務員三番町住宅との間の道が鍋割坂である。)

以前の記事のように、永井荷風の住居の変遷を簡単にたどると、生家は小石川区金富町45番地(現文京区春日二丁目20番25号)で、ここで明治12年(1879)12月3日に生まれた。明治26年(1893)11月麹町区飯田町三丁目(または二丁目二番地)黐ノ樹(もちのき)坂下に移転。黐ノ樹坂は別名冬青木坂。明治27年(1894)10月麹町区一番町42番地に移転。明治35年(1902)5月牛込区大久保余丁町79番地に移転(現新宿区余丁町14番地)。ここまで、荷風(本名壯吉)は二十代前半で、荷風の住居というよりは、父久一郎一家の住居といった方が正確である。

内堀通りを左折した所 永井荷風旧宅跡 永井荷風旧宅跡 永井荷風旧宅跡 今回は、明治27年10月に冬青木坂から移転した一番町の永井荷風住居跡を訪ねた。

旧麹町区一番町42番地は、明治地図(左のブックマークから閲覧可能)を見ると、千鳥ヶ淵から鍋割坂上(坂上左に梨本宮邸がある)を右折し、北へ進み、次を左折し、次の四差路の東南角である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸末期、このあたりはすっかり武家屋敷であった。

現在は、上の地図のように、二松学舎大の西側(裏側)の信号のある交差点となっている。左の写真は、内堀通りから左折した通り(二七通り)の西側を撮り、二枚目の写真は、その先の交差点近く、三枚目は交差点の東北角から東南角を撮り、四枚目は交差点の西北角から東南角を撮ったもので、二松学舎大のビルが見える。この東南角が旧麹町区一番町42番地であり、写真のように、現在、建物はなく、駐車場のようになっている。

秋庭太郎によれば、一番町の家は、二松学舎と背中合わせの通りに面した門構えの大きな借家であった。当時同町内には、井伊伯爵、東園子爵、金子堅太郎、三井得右衛門、三島毅等の邸宅があったが、永井家も銀杏の老樹茂る広壮な屋敷で、靖国神社の今村宮司の持ち家であったという。この家に久一郎は、妻恒、長男壯吉(荷風)、三男威三郎とともに移った。二男貞二郎は、十歳のとき(明治25年10月)母恒の実家である下谷の鷲津家の養子となっていた。

この家から久一郎は竹平町にあった文部省の会計課長として通勤し、壯吉、威三郎は、中学校、小学校に通ったが、壯吉は病気がちであった。

明治27年16歳のとき下谷の帝国大学第二病院に入院し、付き添いの看護婦に初恋をし、その名がお蓮といったのでそれにちなんで荷風と号したという(秋庭太郎が書いているが、その出典が明らかでない)。その後も流行性感冒にかかったりして長患いとなり、翌28年4月小田原の足柄病院に入院し、7月下旬に帰京、その後、逗子の別荘に9月まで滞在などして、一年近く学業を休んだ。

隣接する富士見町に当時、小山内薫、八千代兄妹が住んでいたが、岡田八千代『若き日の小山内薫』に、この時代を回想して、「永井荷風さんの顔を知ったのも富士見町であった。永井さんの家が一番町にあったゝめか、私たちはいつしか其顔を覚えて居た。永井さんのお母ア様は痩せた丈の高い上品な婦人だった。琴を好まれてか、今井慶松の門に這入ってゐられた。そして私も亦其微々たる門下であったゝめ、月ざらひなどに行くと、永井さんの奏でる琴に合せて荷風さんが尺八を吹くのを見た事もある。やっぱり其頃から永井さんは痩身の貴公子であった。」とあるという。

荷風は、この家の思い出を昭和3年(1928)6月8日の「断腸亭日乗」に次のように書いている。

「六月八日 晴れわたりて風涼し、午後中洲病院に徃く、注射例の如し、帰途三番町に赴きて夕餉を食す、半玉二三人帳場に来りて頻にお化銀杏のことを語合へり、此のお化銀杏といふは旧井伊伯爵家の邸後、一番町の坂上に聳る老樹にて、坂下なる冨士見町の妓窩より仰ぎ望めば、夜ふけて雨の降る折など木立のさま遊女の髪を立兵庫に結ひ帯を前結びにして立てるが如くに見ゆるとて、いつともなくお化銀杏と呼ばれて今は冨士見町に遊ぶもの誰一人知らざるはなしと云ふ、されどこは震災後四五年以来の事なるべし、曾て吾が家明治二十九年の秋の頃飯田町もちの木坂下の借家を引払ひて新に移り住みしは正にこのお化銀杏の聳立ちたる一番町の屋敷なりしが、其頃にはこの老樹を見て怪しみ恐るゝものは絶えてなかりき、老樹はわが引移りし家とその南鄰なる侍従東園子爵が屋敷との垣際に聳え、其の根は延びひろがりて吾家の庭一面に蟠りたり、東園家にては折々人を雇ひて枝を刈込ませゐたり、当時の事を回想するにわが父上は移居の翌年致仕して郵船会社に入り上海支店長となりて其地に赴かれたり、余は母上と共に家に留り、尋常中学校を卒業せし年の秋、父母に従ひて上海に遊び、帰り来りて後外国語学校に入り、三年ほどにして廃学したりしも皆この一番町の家に在りし時なり、始て小説を作りまた始めて吉原に遊びに行きたるも亦この一番町の家に在りて、朝夕かの銀杏の梢を仰ぎ見たりし時のことなり、明治四十一年の秋仏蘭西より帰り来りて、一夜冨士見町に遊びし事ありしが、その頃にも猶わが旧宅の銀杏を見てお化銀杏と呼ぶものはなかりき、大正改元の頃冨士見町の妓界は紅白の二組合に分れゐたりしが、其の頃にもお化銀杏の名は耳にすることなかりき、大正癸亥の震災にこのあたり一帯の焦土となりしに、かの銀杏の立てる東園家の垣際にて火は焼けどまりとなり、余が旧宅は災を免れたり、番町辺の樹木大抵焼け倒れたるにかの銀杏のみ恙なく、欝然たるその姿俄に目立つやうになりぬ、是この老樹の新にお化銀杏と呼ばれて怪しみ畏れらるゝに至りし所以なるべし、思へば三十年前われは此の銀杏の木陰なる家にありて始めて文筆を秉りぬ、当時平々凡々たりし無名の樹木は三十年の星霜を経て忽ちにして能く大名を博し得たり、是をわが今日の境遇に比すれば奈何、病み衰へて将に老い朽ちんとす、わが生涯はまことに一樹木に劣れりと謂ふも可なり、」

荷風は、この日、中洲病院の帰りに三番町のお歌のところに寄り夕食をとったが、そのとき、帳場で半玉(一人前でない年少の芸者)二三人が語り合っていたお化銀杏のことをきっかけにして一番町の家を回想している。

父久一郎は、明治30年(1897)3月文部省会計局長の職を辞して、翌4月に日本郵船株式会社に入り、同社上海支店長となり、5月に単身赴任したが、その後一時帰国し、9月、妻恒、長男壯吉、三男威三郎を伴って上海に赴いた。しかし、荷風(壯吉)が上海にいたのは二三ヶ月で、同年11月末には日本へ戻ったようである。上記の日乗に、上海に遊ぶ、とあるが、それにふさわしい程度の滞在であったようである。帰国後、荷風は、外国語学校清語科に入学した。この清語科入学は、上海に遊んだ影響と漢文を善くした父の感化とされている。

そのお化け銀杏は、もともと、荷風の一番町の家と南隣の東園家との際にそびえていたが、当時から大正はじめまではそんなふうに呼ばれていなかった。関東大震災のとき、このあたり一帯が焦土となり一番町辺の樹木もほとんど焼けたのに、この銀杏のみ無事で、そのため、にわかに目立つようになったことがお化け銀杏と呼ばれる所以としている。 しかし、話はここで終わらず、この無名であったが三十年を経た後に名声を得た銀杏と現在の我が境遇とを比べ、その不幸を嘆いているが、そのような比喩に酔っているかのようである。荷風得意の悲嘆調による締め括りである。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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