東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鰻坂~歌坂~逢坂

2010年07月07日 | 坂道

芥坂の坂上を直進し、突き当たりを左折し、次を右折すると、鰻(うなぎ)坂である。

左の写真のように緩やかに下っている。坂下は牛込中央通りで、そのわきに標柱が立っている。

それによると、坂が曲りくねっており鰻のような坂だ、という意味から鰻坂と呼ばれた。『御府内備考』の払方町の項に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々・・・」と記されている。

鰻坂は、ここで終わりではなく、牛込中央通りを超えて上の写真の奥へと続いている。

通りを横断して進むと、緩やかな上り坂である。

坂を上ると途中で、右の写真のように、左に大きく曲がり、すぐにふたたび右に大きく曲がる。このクランク状に曲がる所が勾配もある。

このような大きな曲がりが二回繰り返されるので、鰻坂となったのであろう。

二度曲がってからふたたび緩やかな上りとなって、坂上にも標柱が立っている。

曲がり部分にも標柱が立っているが、木製で、古いものと思われる。坂名だけを読み取ることができる。

牛込中央通りに戻り、左折し坂を下り、法政大学の建物があるところを左折すると、歌坂の坂下である。

左の写真は坂下から撮ったものである。

緩やかに上っており、坂上近くに標柱が立っている。 それによると、雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂路の東側には酒井雅楽頭(後の姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのであろう。

坂の形が海鳥の善知鳥(うとう)の口ばしに似ていて、「うとう」が「うた」になり「歌」に転じたとの説もあるとのこと。

坂上を直進し、突き当たりを左折し、右折し、進むが、この辺りは静かな住宅街である。やがて四差路に至る。ここを右折すると、逢坂(おうさか)の下りである。

右の写真は坂上から撮ったものである。かなりの勾配で下っている。

坂上と坂下に標柱が立っている。その説明によると、昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢の中にあらわれ、この坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。

奈良時代の悲恋の伝説であるが、東京地方で奈良時代の伝説が残っているのは珍しいような気がする。

右の写真のように、坂下側で少し曲がっている。古い坂であることがわかる。

逢坂はgoo地図の尾張屋版江戸切絵図にのっており、坂下の地名は船河原町である。これはいまも市谷船河原町として残っている。

なお、上記の鰻坂、歌坂も江戸切絵図に見える。

坂下に史跡「堀兼の井」の説明板が立っている。堀兼の井とは、「堀りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味であるとのこと。

坂下で外堀通りにつながっている。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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