東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

丹波谷坂と荷風

2010年07月20日 | 荷風

丹波谷坂は永井荷風の偏奇館跡の近くにある。

偏奇館跡の小さな四角柱の記念碑を右に見て進み、突き当たりを右折していくと、高速の下の大きな通りの信号にでる。ここを横断しそのまま直進し、突き当たりを左折し、次を右折すると、丹波谷坂の下りである。

坂上右側が六本木三丁目5番地である。

左の写真は丹波谷坂の坂上から撮ったものである(標柱を入れたら坂下が写らなかった)。

坂上と坂下に標柱が立っているが、その説明によると、元和年間(1615~1621)旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした、とある。

尾張屋版江戸切絵図にはのっていないが、近江屋版には「俗に丹波谷と云」とのっている。しかし、いずれにも坂道は見えない。明治初年に開かれたらしいので、江戸時代の坂ではない。

右の写真は丹波谷坂の坂下から撮ったものである。狭くかなりの勾配である。

丹波谷は荷風の「断腸亭日乗」によくでてくる。

始めは大正12年6月18日である。

「六月十八日。雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。囲者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写真など見せ、其れより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体は稍小づくりなり。秋田生れの由にて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾円なり。この女のはなしに此の家の主婦はもと仙台の或女学校の教師なりし由。今は定る夫なく娘は女子大学に通ひ、男の子は早稲田の中学生なりとの事なり。」

当時の偏奇館から、霊南坂から続く大通りに出て、右折し、そのまま道なりに歩くと、途中、右手に長垂坂の坂上を見てさらに進み、突き当たりを左折し、次を右折すると丹波谷坂の坂上である。いまの道筋とほぼ一致していたと思われる。

荷風はおそらくこの道順で丹波谷坂を下り、その窪地に至ったものと想像される。偏奇館から近く、10分程度ではないだろうか。そこは、女を斡旋するいわゆる私娼宿であった。このような風俗に関する話が断腸亭日乗に時々登場する。荷風は巷でこの種の情報を仕入れていたのであろうか。そういった情報は興味ある者にはすぐ伝わるものである。この日は荷風自らでかけたようである。

荷風はここが気に入ったのか、その後、大正12年だけでも9月1日の関東大震災を挟んで何回もでてくる。

「六月廿二日。風雨一過。夜に入つて雲散じ月出づ。丹波谷に遊ぶ。」
「七月五日。日暮風雨。丹波谷の女を見る。」
「九月廿七日。心身疲労を覚え、終日睡眠を催す。読書に堪えされば近巷を散歩し、丹波谷の中村を訪ふ。私娼の斡旋宿なり。此夜月また佳し。」
「十月十五日。積雨午後に至って霽る。丹波谷の地獄宿中村を訪ふ。」
「十一月五日。払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁昌の由。」

丹波谷の斡旋宿は、その後、引っ越したらしく、昭和2年4月3日に次の記述がある。

「四月初三 快晴、薄暑五月の如し、心身疲労を感ず、午後睡を貪る、夜蒲田の新開地御園町と云ふ処に中村と云ふ者の住居を尋ぬ、主婦不在にて空しく帰る、曾て震災の頃市兵衛町丹波谷に居住し素人の女を、斡旋せしものなり、去年より蒲田に転居し松竹活動写真女優の下廻りを周旋する由なり、」

荷風は、蒲田に転居後も尋ね、未だ相当に未練が残っていたものと思われる。川本三郎は、後年、「墨東綺譚」で玉の井のお雪を訪ねる「わたくし」の萌芽が見られるとする。

荷風は、一方で震災後、お栄という若い女性と知り合いになり交情を深めている。

「九月廿三日。朝今村お栄と谷町の風呂屋に赴く。途上偶然平岡画伯に邂逅す。其一家皆健勝なりといふ。午後菅茶山が筆のすさみを読む。曇りて風寒し。少しく腹痛あり。夜電燈点火せず。平沢夫婦今村母子一同と湯殿の前なる四畳半の一室に集り、膝を接して暗き燈火の下に雑談す。窗外風雨の声頻なり。今村お栄は今年二十五歳なりといふ。実父は故ありて家を別にし房州に在り、実母は芸者にてお栄を生みし頃既に行衛不明なりし由。お栄は父方の祖母に引取られ虎の門の女学館に学び、一たび貿易商に嫁し子まで設けしが、離婚して再び祖母の家に帰りて今日に至りしなり。其間に書家高林五峯俳優河合の妾になりゐたる事もありと平沢生の談なり。祖母は多年木挽町一丁目萬安の裏に住み、近鄰に貸家多く持ち安楽に暮しゐたりしが、此の度の災火にて家作は一軒残らず烏有となり、行末甚心細き様子なり。お栄はもともと芸者の児にて下町に住みたれば言語風俗も藝者そのまゝなり。此夜薄暗き蠟燭の光に其姿は日頃にまさりて妖艶に見え、江戸風の瓜実顔に後れ毛のたれかゝりしさま、錦絵ならば国貞か栄泉の画美人といふところなり。お栄この月十日頃、平沢生と共にわが家に来りてより朝夕食事を共にし、折々地震の来る毎に手を把り扶けて庭に出るなど、俄に美しき妹か、又はわかき恋人をかくまひしが如き心地せられ、野心漸く勃然たり。ヱドモン・ジヤルーの小説Incertaineの記事も思合されてこの後のなりゆき測り難し。」

「この後のなりゆき測り難し」などといっているが、この後、お栄を連れてあちこちに出かけたことが「断腸亭日乗」に何回もでてくる。

「断腸亭日乗」は、その性格上、荷風が交情を深めた女性との間の記録といった面があることを否定できず、荷風と関係した実に色んな女性が登場するが、荷風自身、その総括のつもりか、昭和11年1月30日に「余が帰朝以来馴染を重ねたる女を」列挙している。上記のお栄も挙げられている。

2~3年前、世田谷文学館で荷風展があったが、そのとき、「断腸亭日乗」原本の当該頁(昭和11年1月30日)が開かれて展示されていた。有名な部分なのであろう。

丹波谷坂からかなり話が進んで離れてしまったのでこれで終わる。

なお、上記の写真は、二枚とも2008年の年末に撮ったものであるが、坂上からの写真でもわかるように、坂下一帯で工事が始まっていた。もう大きなビルか何かが建っているのであろうか。

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」(人文社)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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