東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鼠坂~芥坂~浄瑠璃坂~長延寺坂

2010年07月06日 | 坂道

中根坂を下り、途中で左折すると、高架のような道路になるが、ここを進むと、鼠(ねずみ)坂の坂下に至る。

右の写真は坂下から撮ったものである。なお、「東京23区の坂道」で鼠坂の写真を見ると、木製の標柱が写っているが、現在はない。

左側に小さな公園があるので、一休みする。腰を掛けて水を飲んでいると、近くに寝そべっていた猫がこちら側を見て警戒している。猫から眼を離し、しばらくしてから見ると、人畜(猫)無害と判断したのかのんびりと眠っている。

鼠坂は、坂下から少し右に曲がりながら上っているが、細く狭い坂で、長さはさほどない。

『東京案内』に「牛込納戸町と市谷鷹匠町の間より加賀町に下る坂路あり、鼠坂と呼ぶ」とあるという。ここにも、納戸町(なんどちょう)、市谷鷹匠町、市谷加賀町の古い地名が残っている。うれしいことである。

公園にいたとき、この坂に車が上ってきて通り過ぎたのにはびっくりした。一般道のようで近道なのであろう。

坂上から右折、左折、右折して進むが、この辺りは道は狭いが静かな住宅地である。坂下の印刷会社の寮などもあるようである。

突き当たりを右折すると、芥坂の坂上である。 3~4年前に来たときと印象が違う感じがしたが、手摺りのペンキの色のせいかもしれない。左の写真のように、いまは鮮やかな青色である。

石段を下ると、左の写真の奥側に見えるように歩道橋に続いているが、その歩道橋の横に「芥坂歩道橋」のプレートが貼り付けられている。

芥坂という坂名は江戸の坂に多く残っているというが、文字どおり、ごみ捨て場だったらしい。

芥坂の坂上をすぐ右折し、進むと浄瑠璃坂の坂上である。まっすぐに下っている。

右の写真は坂下から撮ったものである。

坂下に標柱が立っている。その説明によると、坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文十二年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討ちとして有名である。

鼠坂から芥坂に向かう途中に、「浄瑠璃坂の仇討跡」の説明板が立っていた。浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近でその仇討ちが行われたらしい。

説明板によると、事件の発端は、寛文八年(1668)三月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。源八は近縁の者らと仇討ちの機会をうかがい、寛文十二年二月三日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢四十二名で討ち入り、牛込御門前で隼人を討ち取ったとのこと。

浄瑠璃坂の坂下を右折し、次を右折し、信号を渡ると、左側に上る坂道がある。ここが長延寺坂である。

緩やかな坂で長さもさほどない。坂上は団地のようである。

左の写真は坂下から撮ったものである。

坂の中ほどに標柱が立っている。それによると、昔、この坂に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから、自然にそう呼ばれるようになったという。

坂下に戻り、左折して進むと、大きな歩道橋があり、右の写真のように、「ごみざかほどうきょう」のプレートが見える。先ほどの芥坂につながる歩道橋である。

この道をさらに進めば、前回の記事の中根坂の坂下に至る。

この歩道橋のある道の両脇を見ると、いずれもかなりの崖になっており、そのむかしは、谷筋であったと思われる。goo地図の尾張屋版江戸切絵図をみると、左内坂のとなりに長延寺があり、その前の道に、長延寺谷の文字が見える。

現在、高架で結ばれている鼠坂は、むかしは、谷まで下る細い坂であったと想像され、芥坂は崖にゴミを捨てるところであったのかもしれない。

歩道橋を上り進むと、ふたたび先ほどの芥坂に至る。これで一周したことになったが、この辺りの地形がよく理解できた。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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