東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

油面(目黒)

2013年11月04日 | 散策

油面交差点 油面地蔵通り入口 油面子育地蔵尊 油面地蔵通り 前回の金毘羅坂の坂上を西へ進むと、次の交差点が見えてくる(現代地図)。

一枚目の写真のように油面(あぶらめん)の交差点である。二枚目は交差点から延びる油面地蔵通りである。

以前、このあたりの地図を眺めていると、この「油面」という地名を見つけ、おもしろい地名と思った。この地名が小学校や公園についている。それ以来気になっていたところであったが、今回、金毘羅坂上から近いとわかったので、交差点を渡って、油面地蔵通りを北へ歩いた。

三枚目は、その途中にあった油面子育地蔵尊である。傍らの説明パネルによれば、もともとは目黒通りの交番近くに立っていたが、昭和9年(1934)に道路拡張のためここに移されたという。

四枚目は、子育地蔵尊からさらに北のところで撮ったもので、昭和を感じさせる街並みになっているが、閉じている店もあるようで、ちょっと元気がないように感じる。

油面通り 油面通り東側坂下 永隆寺 馬喰坂上 油面地蔵通りを北へさらに歩くと、油面通りに出たので、ここを右折し、東へ歩く。静かな住宅街が続くが、ちょっと下り坂となったところで撮ったのが一枚目の写真である。

二枚目は、その坂下近くで撮ったもので、ここはちょっと複雑な五差路になっている(現代地図)。

五差路を東へ進むと、ちょっとした上り坂となって、やがて左手に、三枚目のように、永隆寺の門前が見えてくる。ここをさらにちょっと進むと、四枚目のように、馬喰坂の坂上である。

油面の地名について目黒区HPに次の説明がある。

『「油面[あぶらめん]」は、衾[ふすま]・碑文谷[ひもんや]などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つ。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面[あぶらめん]小学校、油面[あぶらめん]公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、「住区」の名称ともなっており、その長い歴史に新たな一ページを加えている。

さて、「油面[あぶらめん]」の地名は、多くの地名の例に漏れず、土地の産物にちなむもの。江戸時代の中ごろから、この辺り一帯では菜種の栽培が盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油の奉納に付随して、絞油業に対する租税が免除されていたらしく、油製造により税が免ぜられている村、すなわち「油免」が、いつしか「油面[あぶらめん]」となったと伝えられる。

ただし、「面」については、韓国などで、村長のことを面長といっているように、「村」の意味とする説もあり、この説によれば、「油面」は、単に「油のとれる村」の意味となる。

なお、菜種の栽培は昭和の初めごろまで行われ、開校当時(大正14年)の油面小学校は、菜の花畑と竹やぶ、雑木林に囲まれた、畑の中の学校だったという。路線バスが商店街や住宅地を縫うように走る今日の町並みからは、想像もできない風景である。』

この地名は、江戸中期ごろからこの辺りで盛んに栽培された菜種から絞った菜種油に由来するとのことで、そんな説明に接すると、なんだそうかと、ちょっと興ざめしてしまう。

永隆寺西側 十七が坂下への道 十七が坂下への道 十七が坂下 坂上から引き返したが、永隆寺のあたりから西側の坂下を撮ったのが一枚目の写真である。緩やかな勾配でまっすぐに下っている。

馬喰坂上の永隆寺方面は、そのまま台地が続くと思っていたが、そうではなく、すぐに下り坂で、馬喰坂上から永隆寺門前にかけてちょうど山の頂上付近といった方がよく、頂上が分水嶺となっている。坂下から上ると坂上に台地が広がるといった単純な地形ではなく、すぐに下りになるという変化の激しいところである。

坂下を鋭角に左折し、細い道を道なりに南へ、東へと歩く。その途中で撮ったのが二、三枚目の写真で、三枚目のように下り坂となっているところもあって、ちょっと下りながら進む。 四枚目は、この小道の終点の手前から撮ったもので、その先を左折すると、十七が坂の上りとなる(現代地図)。

油面通りを東に進むと、永隆寺、馬喰坂上へと続くことがわかったので、その手前(坂下の五差路)を南方面に進めば、十七が坂下へと続く道があるはずと思って歩いたが、はたしてそうだった。前回この坂を訪れたとき、坂下から左に入る小道があることを覚えていたせいもある。

十七が坂下 十七が坂下 小道を右折しちょっとのところでふり返って撮ったのが一枚目の写真で、十七が坂が右に曲がりながら上っている。

二枚目は、ちょっと曲がりくねった坂下を進み、途中、ふり返って坂上側を撮ったもので、このあたりが十七が坂の坂下であるといってもよいのかもしれない。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、永隆寺の坂下に変則的な四差路があり、そこから南へ、東へと延びる道がこの小道と思われ、その四差路のあたりを流れる川が十七が坂下の近くを通って目黒川へと流れ込んでいる。四差路のずっと西側に字油面の地名が見える。

昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様の道筋があるが、変則的四差路は、現在のような五差路になっており、油面の地名はなく、中目黒四丁目になっている。

坂下の道を直進し、左に曲がりながら道なりに進むと、山手通りの歩道に出るが、ここを右折し、ちょっと歩くと、目黒通りとの交差点で、先ほどの金毘羅坂下である。ちょうど目黒通りの北側の地域(油面地蔵通りの東側、油面通りと十七が坂下の南側)をぐるりと一周りしたことになる。江戸時代までこの一帯に金毘羅社があった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
油面の正しい読み方を教えて頂きました (赤坂 歯科)
2013-11-06 17:51:23
碑文谷はひもんやで知っていましたが
油面で読みが「ゆめん」じゃないんですね。
→初めて知りました!


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