東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鳥尾坂~鉄砲坂~三丁目坂

2010年12月29日 | 坂道

鳥尾坂上 佐藤春夫旧居跡から引き返し、もとの道を左折し直進し、独協中・高の裏手を通り、突き当たりを右折すると、鳥尾坂の坂上である。かなりの勾配でまっすぐに下っている。音羽通りの西側に平行に延びる首都高速が下に見える。

中村雅夫は、坂の写真を撮るポイントはカメラを水平に構えて撮ることで、カメラの構えが仰向いたり下向いたりすると、坂が平らな道のように撮れてしまう、と述べている。しかし、坂上から下を撮る場合、そうすると、坂がよく撮れない。このため、のぞき坂でもそうであったが、この写真もやや下向きに構えて撮った。中村は、だから坂は下からのほうが撮りやすいとしているが、これは、私の経験でもそうである。

坂下の公園わきに立っている説明板には次の説明がある。

鳥尾坂下側 「鳥尾坂 文京区関口3-9と11の間
 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
 明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
 地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。」

説明板のように、この坂は明治以降に開かれたらしいが、明治地図どころか戦前の昭和地図にものっていない。ということで、この坂は比較的新しい坂のようである。横関、石川、岡崎にはのっていないが、山野にのっている。

鳥尾坂下 写真は坂下から撮ったものである。この少し上でちょっと曲がっている。写真左に写っている石柱が上記の説明文にある石柱で、近づいて見ると、鳥尾坂と刻んである。坂下北側が関口台公園である。説明板と並んで旧関口町の旧町名案内も立っている。

森内俊雄にこのあたりが出てくる小説があることを思い出した。この公園も出てきたような記憶があるのだが、題名が思い出せない。図書館で手に取ってはじめて読んだ森内の小説だが、なぜそうしたかというと、よく似た名の将棋棋士(当時の名人)がいるからである。そのファンのため思わず手が伸びた。たくさんの未知の小説からいずれかを選ぶとき、そのようなことが作用することもあるということか。なにか虚無的な匂いを感じさせる小説であった。

以前はじめてこのあたりに来たとき、鉄砲坂の中腹から公園の高台に出た覚えがある。夏の暑い日で、高台から音羽の方を見ながら水分をとった。 今回は、坂下の首都高速の下の道を進む。ここにはかつて弦巻川が流れていた(以前の記事参照)。それが暗渠化されたのであろう。

鉄砲坂下 まもなく左手に細い道が見えてくる。鉄砲坂の坂下である。かなり狭い道がうねりながら上っている。写真右のように坂下に説明板が立っており、次の説明がある。

「鉄砲坂 文京区関口3丁目と目白台3丁目の境
 この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽学校学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。」

説明文のわきに、安政四年(1857)「音羽繪圖」がのっており、これに鉄炮サカとあり、坂下北側に的場とある。この絵図は、尾張屋板江戸切絵図の「雑司ヶ谷音羽繪圖」の一部である。近江屋板にも、坂マークの△印の下に鉄炮坂とあり、坂下に同じく的場がある。

鉄砲坂途中 写真は学生寮の前近くで坂上を撮ったものである。坂上側でかなり急になる。部分的には東京一の急坂という(のぞき坂の記事参照)。

「御府内備考」の音羽五丁目には次のようにある。

「一坂 幅壹間程長六拾間餘右町内西之方裏通目白臺之方え登り候坂に而里俗鐵炮坂と唱來唱之儀北之方大筒角場有之御先手春日八十郎様御組依田大助殿御預場所に御座候右角場有之候に付相唱申候一體小日向飛地に而昔高低に相成り候土取場之由に御座候」

鉄砲坂の坂名は北の方にある大筒角場からであるとしているが、大筒角場とは、上記のように、的場、角場、大筒稽古場などと同じく鉄砲の練習のための射的場のことである(横関)。

鉄砲坂上 写真は坂上から撮ったものである。このあたりで勾配がきつくなっている。

同名の坂は都内に他にもあり、以前鮫河橋坂近くの鉄砲坂を記事にした。横関によれば、坂名の由来はいずれも同じで、鉄砲の練習のための射的場があったからであるが、これを坂の崖下を削ってつくった。横関は、ここの鉄砲坂だけが昔の施設の概要を残しているとし、写真をのせている。それを見ると、坂下の右手(北側)に崖があり、そこが的場であったのであろう。射撃場の形がはっきりと残っているとしているが、それは昭和30~40年頃のことであると思われる。

この写真に見える鉄砲坂下が現在とまったく異なっていることに驚いた。その北側は低地で広場のようになっていて、その低地のわきに崖ができて、そこから坂が上っており、坂の崖側には塀があり、坂途中から広場をよく見渡せたようである。現在は塀に囲まれた学生寮と、その東側が首都高速の下につくられた道や公園になっており、写真とまったく異なった光景となっている。この写真は、この坂の変貌をよくあらわす貴重なものである。

三丁目坂下 鉄砲坂上から坂下に戻り、左折し、高速の下の旧弦巻川跡を北側に少し歩くと二車線の通りに出る。ここが三丁目坂の坂下(の近く)である。緩やかにカーブしながら上っている。ここにちょっと古めいた説明板が立っており、次の説明がある。

「三丁目坂(さんちょうめざか)
 旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていた。
 音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり。」と記している。」

この坂も7丁目坂と同じく坂下の旧町名にちなむとの説明である。

三丁目坂上 ちょっと長めの坂を上り、坂上から撮った写真である。首都高速はかなりの下に見える。坂上はかなり緩やかでどこが坂の終わりなのかよくわからないほどである。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、鉄砲坂の北に桂林寺があって、その北側に、三丁目と四丁目の間から南西に延びる道があるが、ここが三丁目坂と思われる。近江屋板には坂マークの△印がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)

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