東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

「浅利坂」~切支丹坂~切支丹屋敷跡

2011年02月28日 | 坂道

荒木坂~切支丹坂地図 地図に「浅利坂」とある坂 地図に「浅利坂」とある坂 水道通りにふたたび出て右折し、荒木坂を上り、切支丹坂方面を目指すことにする。

左の写真は、"谷道~新坂(今井坂)の記事"で引用した通り沿いに立っている地図の部分図である。これを見たら、荒木坂の北の先途中に、浅利坂、という知らない坂があったので、これに寄ってみることにする。

荒木坂上を直進し、しばらくすると、左手に坂が見えてくる。これが地図でいう浅利坂である。勾配はさほどなく、短い坂である。坂上の通りは、荒木坂上を左折し道なりに進んだ道である。

ところが、帰宅後、調べたら、浅利坂は現存しない坂となっていた。横関は、浅利坂を、江戸時代にこのあたりにあった切支丹屋敷のそばの坂とし、分譲地内に入っていて、永久に姿を消してしまったとしている。坂名は、昔、この坂のそばに浅利氏の屋敷があったからという。蜊(あさり)坂ともいう。

切支丹屋敷跡 切支丹屋敷跡説明板 順序が前後するが、切支丹坂上を右折しちょっと歩いたところに「都旧跡 切支丹屋敷跡」と刻まれた石柱が立っている。そのわきの東京都教育委員会の説明板には次の説明がある。

「江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取締まった。
 この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保三年(1646)屋敷内に牢屋を建て、転(ころ)びバテレンを収容し、宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。
 享保九年(1724)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政四年(1792)に廃止された。」

切支丹屋敷は、現在の小日向一丁目14,16,23~25番地にかけてあったという。屋敷創立当時は七千七百余坪といわれ、少なくとも六千坪は超えていたというから、かなり広かった。

幕府は、キリシタン信者を、見せしめとして、往来の多い札ノ辻(江戸芝口)で数多く処刑したが、それは逆効果で、殉教の喜びを与えただけであり、殉教者が出ると海外から宣教師が潜入し、これが繰り返された。このため、幕府は厳罰のみの方針を転換し、転び(棄教)を仕掛けた。九州に潜入した宣教師などを長崎から江戸送りとし、小伝馬町の牢屋で調べ、穴の中へ逆さ吊りにするという虐待により転ばせてから、この切支丹屋敷に収容した。この任に当たったのが、本人もかつては信者であり寛永四年(1627)筑後守に任ぜられた井上政重であった。

横関は、浅利坂を昭和12年(1937)6月3日に訪ねたのだという。当時は、この辺りは分譲地であり、そこの管理人に頼んでようやく許可を得て、切支丹屋敷内の「八郎衛石」と「浅利坂」を見学したが、石ころ畳の坂みちで、なんともいえない、いい坂であったとある。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、荒木坂の北に、アサリサカ、とある。近江屋板も同様である。荒木坂上は突き当たりで、左右(東西)に分かれた道を進むと浅利坂の坂上、坂下に出たようである。

『御府内備考』には、「浅利坂とは荒木坂上の方より切支丹屋敷へゆく間の坂なり、ここも切支丹屋敷の上地の内なりといふ、【改選江戸志】」とある。

横関には、浅利坂は、旧小石川茗荷谷町と小日向第六天町の境界を東に下る坂とある。この境界に相当するところを見ると、現在の切支丹坂の少し南のあたりであるが、地図上に道はない。横関は、この坂を上記のように訪れ、その位置は間違いないように思われるので、道路沿いに立つ上記の地図の示す「浅利坂」の位置は、誤りということになる。

切支丹坂下 切支丹坂下 切支丹坂中腹 切支丹坂上 「浅利坂」の坂下を左折し、しばらくすると、突き当たりになるが、左側に延びる坂が切支丹坂である。右折すると庚申坂の方に続くトンネルの入口である。左の写真はトンネルの中にちょっと入って、坂上を撮ったものである。まっすぐに上っており、勾配は中程度といったところで、途中、坂上側で道幅が狭くなる。

『御府内備考』は、「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり。わつかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ、【改選江戸志】」と説明する。

尾張屋板を見ると、浅利坂下の北、突き当たり右(東)に、キリシタンサカ、とある。近江屋板も同様である。ちょうど、"谷道~新坂(今井坂)"の記事で紹介した谷道から東へ上る位置にある。ここは、庚申坂であり、上記の改選江戸志の説明のように誤りともいえそうであるが、切支丹坂は庚申坂の別名ともなっている(御府内備考)。

上記の尾張屋板は、東都小石川絵図(1857)であるが、礫川牛込小日向絵図(1860)に、服部坂の東の道に、切支丹坂、とある。服部坂上から横町坂を下ると、この道に出る。ここを北へ進むと、薬罐坂にいたり、生西寺わきを右折していくと、切支丹屋敷跡の方に行くことができるが、かなり距離がある。なぜ、ここに切支丹坂とあるのかよくわからない。

永井荷風『日和下駄』「第九 崖」にこのあたりが次のように書かれている。

「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町の裏へと攀(よじ)登っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。 まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨か何かのために突然真四角な大きな横穴が現われ、何処まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。」
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)

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