三百坂下を左折してまっすぐに延びる道を西へ進むと、やがて信号のある大きな交差点に至るが、この両側で上下するのが吹上坂である。交差点を左折するとすぐに、坂上であるが、この西側に説明板が立っている。文京区の例の車道側に大きく坂名を、その歩道側の裏面に説明文を標示したものである。
坂上を直進すると春日通りにでて、その交差点の向こうは庚申坂へと続く。坂を北へ下ると坂下は千川通りにつながる。千川通りは、むかし小石川(千川)が流れ、谷筋であり、この坂は春日通りの通る小石川台地とその北側の谷とを結ぶ。坂はかなり長く、坂上側は中程度の勾配であるが、坂下側でかなり緩やかになる。この長さから小石川台地の広さがわかる。
広い通りになっているが、高いビルが乱立していないためか、なにかちょっと昭和の名残りがあるようなレトロな感じがするところである。何ヶ箇所かでわずかに曲がりながら全体してはほぼまっすぐに下っている。
『吹上坂(ふきあげざか) 小石川4-14と15の間
このあたりをかつて吹上村といった。この土地から名づけられたと思われる。「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり、」(改撰江戸志)。
なお、別名「禿坂」の禿(かむろ)は河童に通じ、都内六ヵ所にあるが、いずれもかつては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
この坂も善仁寺前から宗慶寺極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止(とど)めていた。
雑然と鷺は群れつつおのがじし
あなやるせなき姿なりけり 古泉千樫(1886~1927)』
尾張屋板江戸切絵図を見ると、三百坂下り通りを西へ進み、松平播磨守の屋敷のある南北方向がずれている変則の四差路を右折し、北へ善仁寺、宗慶寺の方に続く道があるが、ここが吹上坂と思われる。近江屋板にも同じ道筋があり、坂マーク△がある。
「一坂 長三拾間、幅貳間半、右當町北の方松平播磨守様御屋敷脇、宗慶寺前に有之候、右御屋敷内に有之候極楽水、高き所より涌出吹上水とも申候に付、其近邊を地名に申候故吹上坂と唱申候、」
上記によれば、極楽水を吹上水とも呼んだので、それから吹上坂となったとしている。
また、禿坂ともいったが、これは、新宿の靖国通り近くの禿坂などと同じく、近くに古池や川などがある坂であるが、ここには坂下に小石川が流れていた。
坂下側に宗慶寺があるが、切絵図には、この中に極楽水がある。現在、大きなマンション脇の庭の中にその跡が残っている。
「小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。」
「縞セルの背広に、麦稈帽、藤蔓の杖をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充(み)ち渡って、深い碧の色が際立って人の感情を動かした。肴(さかな)屋、酒屋、雑貨店、その向こうに寺の門やら裏店の長屋やらが連って、久堅町の低い地には数多の工場の煙突が黒い煙を漲(みなぎ)らしていた。」
切支丹坂とは、いまの庚申坂のことである。主人公は、ここを上り、春日通りを横断してこの坂を下って、数多の工場の1つに通って、地理書の編輯を手伝っていた。「蒲団」は明治40年(1907)9月発表であるから、当時のこの坂の雰囲気がわかる。この坂の近辺を久堅町といった。
右の写真は坂下の千川通りである。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
田山花袋「蒲団・一兵卒」(岩波文庫)