前回(桃園川緑道源流遡行(1))の桃園川の水源のあった天沼弁天池公園(現代地図)から桃園川緑道に戻り、その上流側の千川用水跡を遡った。
以下の地図は、天沼弁天池の周辺を示すが、前回引用のものである。
(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図
地図(1)~(5)のいずれにも荻窪駅近くの青梅街道から北へ東へと続く水路が見えるが、これが千川用水である。地図(5)に青梅街道に沿う水路が千川上水として示されている。
千川上水は、元禄9年(1696)玉川上水境橋から分水された。千川用水は、練馬・杉並の六ヵ村が灌漑用水の不足を補うため宝永4年(1707)に願い出て、千川上水の水を利用できるように練馬関村の出店から青梅街道に沿って南側へ開削された用水路である。この千川用水は、荻窪駅北口の青梅街道の教会通りの入り口西(追分)を境に西を半兵衛堀、東を相沢堀と称した。半兵衛は下井草村の名主、相沢は阿佐ヶ谷村の名主の家柄であった。
半兵衛堀と相沢堀との境である追分から天沼、阿佐ヶ谷の灌漑用水として新しい堀が開削され、天沼弁天池から流れる桃園川に合流した。この追分からの流れも千川用水と呼ばれたが、この千川用水跡が残っており、桃園川緑道に続いている。
前回の天沼弁天社近くの車止めのある小路を通り抜けて(一、二枚目)、桃園川緑道に戻り、右折し、西に向かう。 右の一般道と並行するが(三枚目)、やがて一般道が右折するので、緑道一本になる(四、五枚目)。
このあたりまでは雰囲気が下流の桃園川緑道とほとんど変わりない。
やがて前方に人通りの多い道が見えてくるが(一枚目)、ここが商店街となっている教会通りで、左折すれば青梅街道、右折すれば東京衛生病院方面である。
教会通りを横切って進むと、車止めのある千川用水跡が続いている(二枚目)。この辺から先は、下流側と同じく車止めを設置し歩行者専用であるので緑道と言ってよいが、ビルに挟まれており、植栽もなく、ちょっと緑道の雰囲気になっていない。
やがて向こうに青梅街道が見えてくる(三枚目)。四枚目の車止めのある青梅街道の歩道が千川用水跡の終点(または始点)である(現代地図)。天沼弁天池公園から近くここまで5分程度であった。(五枚目は歩道から振り返って千川用水跡を撮ったもの。)
上四枚目のあたりは、半兵衛堀と相沢堀との境である追分付近と思われ、右側が半兵衛堀方面、左側が相沢堀方面である。
相沢堀の千川用水は、緑道地図(5)のように青梅街道を新宿側へ向かい、阿佐ヶ谷田圃に流れ、後の阿佐谷駅付近へと流れた。
一枚目の地図は、昭和10年(1935)頃の杉並区地図(2)の下流側地図、二枚目の地図は、緑道地図(5)の下流側地図で、桃園川が中央線の北側で阿佐谷駅方面からの流れと合流しているが、この阿佐谷駅方面からの流れが駅南側の青梅街道から流れており、これは上記の相沢堀の千川用水であろう。
今回の千川用水跡遡行は、千川用水跡が桃園川緑道と境目なく連続し、距離も短いので、桃園川緑道源流遡行の続編とした。
千川用水の歴史と地理について下記「杉並の川と橋」が大変参考になった。
参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)
井伏鱒二「荻窪風土記」(新潮文庫)