東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

女夫坂~円通寺坂

2010年09月27日 | 坂道

今回は新宿区内の坂巡りで新宿通りの南側へ(若葉、須賀町、南元町など)。

午後四谷三丁目駅下車。

3番出口からでて新宿通りを東に進み、一本目を右折する。そこが女夫坂の坂上である。細い路地で、緩やかに下っている。

右の写真は坂上から撮ったものである。この坂は南側にいったん谷底まで下ってからまた緩やかに上っている。南側の坂の方が緩やかでかつ短い。

二つの坂が合している形状から女夫坂(めおとざか)とよばれたらしい(山野)。

横関は夫婦坂(めおとざか)と書き、一つの名を二つの坂に利用した巧妙な名のつけ方であるとしている。同じ種類の坂名として相生坂があるという(以前の記事参照)。

江戸切絵図をみると、円通寺の西側に、忍原ヨコ丁、とあるが、ここがこの坂のようである。坂の三角印はない。

このあたりは、江戸初期、原野であったが、寛永17年(1640)武州忍の城代高木筑後守がここに住み市街地にしたことに因んで忍原(おしはら)と名づけられ、忍原横町となったとのことである(岡崎)。

南側に進み、丸正のビルのある角を左折し、道なりに歩いていくと、左に曲がり、そのまま直進すると、大きな通りにつながるが、ここが円通寺坂の坂下である。

新宿通りに向けてまっすぐに上っている。さきほどの女夫坂とほぼ平行である。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。」

同名の坂が赤坂にあり、以前の記事で紹介したが、坂名も同様の理由からつけられたようだ。ちなみに、円通寺坂というのはこの二つしかないようだが、ちくま学芸文庫の近江屋版江戸切絵図につけられた索引をみると、円通寺、円通院はこれら以外にも都内にまだある(あった)ようである。

坂を上るが、さきほどの女夫坂よりも勾配がきつい。右の写真は坂上から撮ったものである。

江戸切絵図をみると、この通りが法ソウジヨコ丁となっており、その西側に円通寺がある。坂の東側に法蔵寺があるが、それが横町の名になったようだ。

坂を下って引き返すと、円通寺坂からの通りから右に分かれる道があり、ここを先ほど通ってきたが、江戸切絵図をみると、当時は円通寺坂からの道はここで西側に曲がっており、さきほどの忍原ヨコ丁の道につながっていたようである。

下左の写真はそこから円通寺坂からの通りを撮ったものであるが、ここから下側の若干の区間は後で開かれたものであろう。

左の写真のように、かなり曲がりながら緩やかに下っており、この通りが、途中で若二商店街となって、さらに中央線、首都高速のガード下をくぐり抜けて青山御所わきの南元町の交差点まで延びている。

今回の坂巡りは、円通寺坂からの通りを谷筋として考えると、わかりやすく、これから行く坂は、ほとんどこの谷から左または右に上るものである。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期には、この通りにほぼ沿って南元町の交差点のあたりから円通寺坂の途中まで海が延びていたようである。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
新創社編「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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