東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

清水坂(戸越銀座)

2015年01月20日 | 坂道

戸越銀座駅 戸越銀座 清水坂下 清水坂下 前回の桐ヶ谷坂上の中原街道の歩道を西へちょっと進み、左折して小路に入り、その先で右折すると小さな公園があったので小休止。よく晴れているため冬の日差しがまぶしい。

小路の緩やかな坂を下ると、やがて左前方に池上線の戸越銀座駅のホームが見えてくる。そのあたりから撮ったのが一枚目の写真である。

踏切を渡り、右折しちょっと歩くと、戸越銀座の通りである(現代地図)。商店街が東西にまっすぐに延びているが、左折し、東側へ進む。二枚目はそのあたりから東側を撮ったもので、通りは第二京浜を越えて延びている。これから向かう坂はすべて、この先でこの通りの右側(南)に上る坂である。

このあたりの中華料理店で昼食をとってしばしの休憩。

第二京浜を横断し、二本目を右折すると、清水坂の坂下である(現代地図)。戸越三丁目2番と戸越二丁目1番の間を南へ上る。

右折するところから坂上側を撮ったのが三枚目、ちょっと坂上側に歩いてから撮ったのが四枚目で、緩やかな道が続いてから勾配がはじまっているが、この勾配を上れば坂上で、短い坂である。

戸越銀座周辺明治44年地図 戸越銀座周辺昭和16年地図 一枚目は、明治44年(1911)発行の地図から切り抜いたこのあたりの部分図であるが、現在とまったく違っている。二枚目は、昭和16年(1941)発行の地図の部分図で、現在とほぼ同じである。この30年の間に大きな改変・改修があったことがわかる。

一枚目の明治地図を現在と対比する基準となるのは、上端(北)中央付近の百反通りと峰原通りとの合流地点、そのちょっと左(西)から下(南)に延びる道、中央のちょっと下の八幡社と行慶寺である。これらの位置は現在と同じと思われる。

合流地点近くの道は、下(南)に延びるにつれて右(東)へとカーブし、次第に東向きになるが、その途中で、下(南)へほぼまっすぐ延びる道がある。この道の下側の左(西)に八幡社と行慶寺があるが、現代地図と比べると、この道が八幡坂(後で行く)と思われる。その道の途中に小川(用水路)が二本横切って東へと流れているが、下側(南)の小川のあたりが戸越銀座の通りになったのであろう。

戸越銀座の通りから南に上る坂は、西から順に、清水坂、宮前坂、八幡坂、三井坂、平和坂である。明治地図での八幡坂の位置がわかったが、この清水坂の位置はどこかと見ると、八幡坂の西に南へ延びる道が二本ある。その西側の道が清水坂と考えるのが妥当と思われる。明治地図では坂下側で曲がっているが、この道を南から北へまっすぐに延ばすと、八幡坂下からの東西の延長線に対しほぼ直交する。これは現在と同じである。また、この道の近くに「字藪清水」の地名があるが、これがこの坂名の由来であろうか。岡崎が指摘している。

品川区HPに名称の由来として次の説明がある。

『もともと「戸越」の地名は、この辺りが江戸越えの村だったことを由来としており、『江戸越えて清水の上の成就庵ねがひの糸のとけぬ日はなし』という古歌も残っています。この歌の「清水」をとって、 清水坂という名が付けられたと考えられています。』

その古歌の「清水」と、地名の「藪清水」は、由来がもともと同じなのであろうか。 

清水坂下 清水坂下 清水坂下 清水坂中腹戸越銀座の通りから曲がってちょっとしてから振り返って通り側を撮ったのが一枚目の写真である。反対側(北)の道が見えるが、上り坂になっている。

ちょっと進み坂上側を撮ったのが二枚目で、このあたりから勾配がはじまっている。

そのあたりから坂下側を撮ったのが三枚目で、坂下東側に末廣稲荷が見える。

さらに上って中腹から坂上側を撮ったのが四枚目で、ちょっと勾配がある中腹東側に五反田教会が見える。

このあたりは、目黒台地の東端で、この台地にちょうど東から西へと入り込んだ谷(窪地)で、その北側が百反坂上の台地である。明治地図のように、谷底に小川が流れていた。

この東西に延びる谷筋にできた元々の通りは、雨でぬかるんだり洪水が起きたりで、大正末期まで商業地としてはなかなか発展しなかった。ところが、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で東京都中央区の銀座は大きな被害にあったが、このあたりは竹藪が多くて地盤が強く、被害が少なかったこともあって新しい商店街立ち上げの気運が高まった。銀座では道路のアスファルト化のため舗道を撤去したが、戸越の人々は、その敷石のレンガを譲り受け、大八車で繰り返し往復し運び、道路を暗渠にしレンガを通りに並べた。昭和2年(1927)7月に商店街が発足したが、銀座の名称も譲り受けて「戸越銀座」と名付けられた。現在、銀座の名称を持つ商店街が全国に約300以上あるが、中央区の銀座に次ぎ銀座の名を一番先に持ったのは戸越銀座商店街であるという(戸越銀座商店街の戸越銀次郎ブログの戸越銀座の由来参照)。

大正12年(1923)の関東大震災は、それまでの東京を大きく変えるきっかけになったとよくいわれるが、この戸越銀座もそのようで、現在のように発展する契機になった。

清水坂中腹 清水坂上 清水坂上 清水坂上 中腹のちょっと上から坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、中腹の東側にこの坂名の付いた歯科医院の看板が見える。この坂には標識が立っていないので、その代わりになる。

ちょっと上り坂上近くから坂上側を撮ったのが二枚目で、さらに上って坂上の向こうを撮ったのが三枚目である。坂上は南へまっすぐに延びている。

そのあたりで振り返って坂下側を撮ったのが四枚目である。

ちょっとまっすぐに上っただけで坂上にいたる短い坂であるが、坂名をつけた医院があったりして、付近の住民から親しまれている感じがする。

品川区HPの清水坂のデータによれば、この坂は延長が60m、最大勾配が約9.3%(5.3度)である。

同名の坂が、上野池之端文京区湯島などにある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)

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