東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

長垂坂

2010年10月18日 | 坂道

今回は、港区六本木、麻布界隈の坂を巡った。

午後六本木一丁目駅下車。 1番出口からでる。右折し、すぐに右折し、大きなビルの間を道なりに進み、坂を下り、突き当たりを左折する。ここが長垂坂(なだれざか)の坂下である。

右折すれば、すぐそこが六本木通りで、六本木の交差点に向かって坂が西に上っているが、市三坂である。この市三坂の南側(六本木三丁目)の坂をまず巡る。

右の写真は長垂坂下をちょっと進んだところから坂上を撮ったものである。このあたりは勾配はまだ緩やかである。右に写っている新しい標柱には次の説明がある。

「なだれざか 流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。」

この坂は、江戸からの古い坂のようである。尾張屋板江戸切絵図をみると、ナダレ、とあるが、坂マークはない。坂上でつながる道に、麻布市兵衛丁、とある。近江屋板には、坂マークの三角印△の下に、ナダレト云、とある。いずれにも「サカ」は付いていないが、江戸の道である。

この坂は、上右の写真のように、坂下を少し上ると、右にちょっと曲がるが、そのさきから坂上を撮ったのが左の写真である。

近江屋板でも同じように曲がっている。ここから上はちょっとうねりがあるがほぼまっすぐに上っていて、坂上側で勾配がちょっときつくなる。全体としてかなり長い坂である。

「新撰東京名所図会」に次のようにあるという。「なだれの義は、勾配強からずして斜に傾きたるを邦語なだれ(『言海』に長垂の意かとあり)といへるより、蓋し其地勢上に得たる名なるべし」。要するに、勾配はないが傾斜している地形から長垂(なだれ)となったらしい。

別名の幸国寺坂について横関は、文献を探し幸国坂が幸国寺坂であると知ったものの、その寺がこの辺にあったという記録がなったが、寛文の江戸図に幸国寺をこの坂のそばに見つけたと書いている。横関の著書に、その寛文図がのっているが、坂の西側にたくさんのお寺が並んでいるところに「カウコクシ」とある。

右の写真は坂上近くから撮ったものである。坂上にも標柱が立っている。

坂上を左折して進めば、大きな通りを横断しさらに進み、左折するところに、以前の記事のように山形ホテル跡の説明パネルが立っている。

永井荷風の住んだ偏奇館は、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で焼失した。その日の「断腸亭日乗」(以前の記事参照)は有名であるが、その冒頭に、「三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、・・・」とある。長垂坂の方から火が風にあおられて延焼したようである。坂上から偏奇館まで直線距離にすれば、300mほどであるので、かなり近い。

明治地図をみると、坂の西側にたくさんのお寺があったようだが、現在は、円林寺、善学寺だけである。

戦前の昭和地図には、長垂坂とあり、坂下近くに市電の今井町停留所がある。 荷風は、市電の乗降にはこの停留所を利用したかもしれないが、「断腸亭日乗」にその記載をみつけることができない(または、その一つ手前の停留所か)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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