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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

お茶の水橋~聖橋~昌平橋

2011年12月03日 | 散策

前回は駿河台の坂巡りをしたが、その次の週、神田古本祭りに行く途中、お茶の水駅近くの神田川にかかる橋と淡路坂の北側の坂を訪れた。その小散策記である。

お茶の水駅からお茶の水橋 お茶の水橋から東側 お茶の水橋から聖橋 お茶の水橋から聖橋 午後JRお茶の水駅下車。

一枚目の写真は、中央線上りホームから撮ったお茶の水橋である。改札を出て、まず、すぐのところにあるお茶の水橋へ行く。二~四枚目は、この橋から東側(神田川下流側)を撮った写真である。

この橋はもちろんはじめてではないが、これまでは通りすぎるだけで、橋からの景色をゆっくり眺めたのは今回がはじめてである。アーチ形状の聖橋がよく目立つ。ここから神田川や駅ホームや線路を見ると、このあたりの地形がよくわかる。神田川の水面から聖橋までかなりの高さがあるが、聖橋は、淡路坂の坂上と同じ高さであるから、この一帯の台地の高さを現しているといってよい(このお茶の水橋も同じ)。

このあたりの神田川は、江戸時代に最高地点が海抜約18mの本郷台地を掘削してつくった水路とのことで、どおりで深いはずである。その後、土手下をさらに開いて、神田川よりも上、台地よりも下に線路を通したと思われる。さらに、戦後には、四枚目の写真のように、中央線の下に丸の内線が通るようになった。

お茶の水橋から西側 お茶の水橋から上流 相生坂から聖橋 お茶の水駅から聖橋 一、二枚目の写真はお茶の水橋から西側(神田川上流側)を撮ったものである。神田川が上流に向け左に緩やかにカーブし、その先の南側(左側)の土手上は見えないが、そこの土手に沿って西へと下るのが皀角坂である。

橋を渡り、右折し、歩道を東へ歩くと、下りになるが、相生坂(昌平坂)である。三枚目の写真は、坂を下り、聖橋の下をくぐり抜けてから撮ったもので、四枚目は、先ほど、駅のホームから撮った写真であり、いずれから見ても聖橋のアーチ姿が美しい。

現在の神田川は、江戸期に本郷台地を切り開いて人工的につくられたものであるが、その歴史を簡単にたどる。以下では、鈴木理生「江戸はこうして造られた 」(ちくま学芸文庫)を参考にした。

神田川の原型は、中世に平川と呼ばれた川で、平川は大手町一丁目の丸紅ビル付近で日比谷入江に注いでいた。日比谷入江とは、現在の東京湾が浜松町の方から北へ日比谷のあたりまで入り込んでいた所で、江戸初期に埋め立てられた。

平川は、家康の江戸入り(1590)直後からの付け替え工事で、現在の一ツ橋辺から現在の日本橋川の河流の線を流れて、江戸橋付近で旧石神井川と合流して海に注ぐようになった。

元和六年(1620)からの工事で、平川・小石川・石神井川などの洪水が江戸城を直撃するのを防ぐため、放水路をつくったが、それが神田川である。現在の三崎橋付近から平川の河を強引に隅田川に流すために、ねじ曲げる形に変流させた。このときの工事で出た土を利用してつくられたのが柳原土手や三崎町の土手であり、後者はいまでも一部が総武線の線路敷きになっているという。

相生坂から聖橋 昌平橋から上流側 昌平橋から聖橋 昌平橋から下流側 一枚目は相生坂の北側から撮ったものである。坂下を右折して昌平橋に行き、そこで上流側を撮ったのが二、三枚目の写真である。遠くに聖橋が見え、上には総武線が通っている。遊覧船が上流に向かい、すぐに遠くなる。四枚目の写真は、昌平橋の東側(下流側)を撮ったもので、遠くに見えるのが万世橋である。

神田川放水路は、次の三つの部分から構成された。

①三崎橋~水道橋
②水道橋~お茶の水~昌平橋(この区間が海抜約18m(最高地点)の本郷台地を1.1kmの長さに掘削してつくられた)
③昌平橋~万世橋(筋違橋)~和泉橋~柳橋~隅田川河口

それまでの江戸城の工事は、自然の地形を最大限に利用するものであったが、この神田川放水路の建設は、そうではなく、自然河川の河流を直角に曲げるような極端な変流が三箇所あり、この台地を人力で掘り割るという自然改変の大工事であったことが特徴であるという。

聖橋から東側 聖橋から丸の内線 聖橋から西側 昌平橋の南詰から西へ淡路坂を上り、坂上を右折し、聖橋に行く。一、二枚目の写真は、ここから東側を撮ったものであるが、本郷台地の東端であるため展望がすこぶるよいことに気がついた。少なくとも都内では眺望のよいところに入れてもよさそうなところである。二枚目の写真のように、直下には丸の内線が見え、その向こう総武線の鉄橋の下に昌平橋が見える。

三枚目の写真は聖橋から西側を撮ったもので、駅ホームの向こうにお茶の水橋が見える。写真のように、右側の台地(本郷台地)と左側の台地(駿河台)は神田川によってみごとに分断されているが、上記のように、そのむかしは連続した山であった。

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、昌平橋から水道橋までの間には橋がない。明治地図(明治40年)に御茶ノ水橋があるが、聖橋はまだなく、昭和3年(1928)につくられた。その橋名は、相生坂の途中にある湯島聖堂と、橋の南にある聖ニコライ堂にちなむとのことである。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
石川悌二「東京の橋」(新人物往来社)

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