東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

南部坂

2010年09月13日 | 坂道

前回、赤坂の坂を巡ったが、赤坂界隈にはまだ坂がたくさんあり、今回、これらの坂を巡り、さらに、紀尾井町、平河町方面にも行った。

午後六本木一丁目駅下車。3番出口から出ると、右手に道源寺坂と標柱がみえる。赤坂方面に向かう前に道源寺坂を往復して足慣らし。

坂下右側が工事中のためパネルで閉鎖されていた。このため印象がちょっと違う。

坂下にもどり、歩道橋を西側に渡る。

この歩道橋の途中で、南側の道路を撮影したのが左の写真で、写真左側が六本木一丁目駅である。

この道路を直進すると、外苑東通りと交わる飯倉片町の交差点である。途中、わきの旧道の上下する坂が行合坂である。

前回の記事の柳のだんだんは、この方向のどこかにあったと思われる。

歩道橋を下りて左折し、突き当たりを右折し、裏道に入る。突き当たりに久國神社がある。

裏道を進み、次を左折すると、南部坂の坂下である。

ちょっと入ったところに石碑が自動販売機のわきに立っている。石碑には南部坂と刻まれている。

石碑の上側で左に大きく曲がったさきから坂上を撮ったのが右の写真である。石垣にむかしからの風情が残っている。左に曲がってからまっすぐに上るが、この曲がるあたりが勾配のある部分である。

下左の写真のように、坂上に標柱が立っているが、次の説明がある。

「なんぶざか 江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい「忠臣蔵」で有名である。のち険しいため難歩坂とも書いた。」

横関によれば、南部坂というのは南麻布にもあるが、いずれも坂のそばに奥州盛岡城主の南部家の屋敷があったことが坂名の由来で、赤坂の南部坂の方が南麻布の南部坂よりも古いらしい。

正保元年(1644)の江戸絵図に、赤坂の南部坂上に「南部山城守下ヤシキ」とあり、また、明暦二年(1656)二月、忠臣蔵で有名な麻布の浅野家の下屋敷が南部屋敷にかわり、それ以降、麻布の方も南部坂とよばれることになったらしい。

忠臣蔵にでてくる「南部坂雪の別れ」は、そのような史実があったとすれば、この赤坂の南部坂の方で、赤穂浪士の討ち入りの元禄十五年(1702)には麻布に浅野屋敷がなかったので、麻布の南部坂ではなく、それに、討ち入りのときはすでに浅野家の屋敷はすべて没収されていたばずとしている。

以下、真山青果作「元禄忠臣蔵(下)」(岩波文庫)からの引用である。

「赤坂今井台(後世は氷川台という)には、今もなお南部坂、難歩坂など書きわけて二つのなんぶ坂があるが、内匠頭奥方阿久里子の生家たる浅野土佐守長澄の中屋敷は、今の小学校の南部坂の方にあって、屋敷地の大部分はいまの氷川神社の境内となっている。
長矩夫人は赤穂浅野の没落後、黒髪をおろして仏門に帰し、名も瑶泉院とあらためて、亡夫の菩提を弔うため、兄土佐守家より仕送りをうけて、看経読経の侘びしき月日をこの南部坂の中屋敷におくっている。」

南部坂雪の別れの舞台の説明であるが、真山青果によれば、赤坂今井台には、南部坂、難歩坂など書きわけて二つのなんぶ坂がある、としているが、もう一つはどこであろうか。標柱などは同じ坂の別名としているので真山の説明と違っている。

また、長矩夫人の瑶泉院は生家の浅野土佐守長澄の中屋敷に住んでいたが、そこはいまの氷川神社の境内であったらしい。それならば、南部坂雪の別れがこの赤坂の南部坂であることに納得がいく。横関も同様のことを指摘している。

江戸切絵図を見ると、麻布谷町から上る南部坂があり、坂上の左側に氷川明神がある。道源寺坂は、そのさきで麻布谷町の通りとつながっており、南部坂の近くであった。現代は、上記のように、長い歩道橋を渡るので、なんとなく遠く感じてしまう。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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