東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鏑木坂

2015年02月07日 | 坂道

立会道路 立会道路 鏑木坂下 鏑木坂下 前回の八幡坂の坂名の由来である小山八幡神社から神社前の道にでて、右折し、摩耶寺の前を過ぎて南へ歩き、次の信号を左折して進み、次の信号を右折すると、立会道路である(現代地図)。

立会道路を南へ進むが、そのあたりで進行方向を撮ったのが一枚目の写真である。さらに歩いて、緩やかなカーブの手前で進行方向を撮ったのが二枚目である。

二つ目の信号を右折すると、遠くに坂が見えるが、これが鏑木坂(かぶらぎざか)で、そのあたりで撮ったのが三枚目である。江戸見坂のように坂下から離れたところから遠望できる。この坂も立会川の流域を坂下とし荏原台地の東端の一角に上る。

坂下に近づいて撮ったのが四枚目で、中程度の勾配でまっすぐに上っている(現代地図)。坂の右側(北)の建物は昭和大学の校舎である。旗の台一丁目9番と10番との間を西へ上る。

鏑木坂下 鏑木坂下 鏑木坂周辺明治44年地図 鏑木坂周辺昭和16年地図 坂下の交差点から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、そのちょっと上から坂上側を撮ったのが二枚目である。ほぼ同じ勾配でまっすぐに上っている。

三枚目は、明治44年(1911)の地図のこのあたりの部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。

昭和地図をみると、現在とかなり近いが、明治地図は、川が三本も流れていて、どれが立会川本流なのもわからず、現在と対比するのが難しいが、前回の明治地図の下側(南)にあたるので、これと比べ、さらに下流側と比べると、真ん中の流れが本流らしい。中央からやや上側を左右(東西)に延びる道がこれらの川と直交しているが、この道が鏑木坂にいたる道であろう。ここの橋を屋敷下橋といった(石川)。

明治地図で「字屋敷下」とあるあたりが坂上付近と思われ、そこから右(東)へまっすぐに下っている。住所は、東京府荏原郡平塚村大字中延字屋敷下。この道をそのまま右(東)へ行くと、四差路があるが、その上下(南北)の道が旧中原街道と思われる。

昭和地図では、坂の右側(北)が広大な鏑木邸で、坂名はここからきている。ここは現在、昭和大学の敷地となっている。

鏑木坂下 鏑木坂中腹 鏑木坂中腹 鏑木坂中腹 坂をちょっと上ってから振り返って坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、交差点の手前におもしろいデザインのマークが写っている。コンクリートブロック状の物が立体的に浮かんで見える。交差点であることの注意喚起の新しい標識か。

さらに上って坂上側を撮ったのが二枚目で、さらにその上の反対側歩道から坂上側を撮ったのが三枚目である。

さらに進んで坂上側を撮ったのが四枚目で、坂上が見えてきた。

この坂名の由来が品川区HPで次のように説明されている。

『昭和大と同付属病院の間の坂を言います。昔は、立会川のところから坂上にかけて天領名主鏑木家の屋敷があったため名付けられました。』

鏑木氏は平家の支流で、千葉氏から別れ、足利時代に此地に移住して開拓につくしたという(石川)。

鏑木坂中腹 鏑木坂上 鏑木坂上 鏑木坂上 そのあたりから坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、さらに上ってから坂上側を撮ったのが二枚目で、坂上の交差点が見える。

その上から坂下側を撮ったのが三枚目で、坂下と同じ標識が画かれている。

さらに坂上側に進んでから進行方向を撮ったのが四枚目で、先ほどの交差点を過ぎても緩やかな上りがだらだらと続いているが、この先の幼稚園の手前でようやく平坦になる。

品川区HPでは、坂の延長が260m、最大勾配が9.0%(5.1度)で、かなり長いが、坂上の平坦になる所まで長いためであろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「東京の道事典」(東京堂出版)

コメント (1)
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