太宰治展でなにをみたかほとんど覚えていない。
ただ一つ記憶に残っているのは、川端康成にだした手紙である。巻物状の和紙に毛筆で書いたもので、長く延ばされて展示されていた。はじめて読んだと思う。しかも現物で。
もう一度読みたいと思って探したら、東郷克美「太宰治の手紙」(大修館書店)にあった。これで読んでみたが、なにか感じが違う。そういえば段落がもっと細切れであったはずである。太宰の字が大きく巻物の縦は短いから当然のことであるが、読む調子が大部違ってくる。
この手紙は、昭和11年(1936)6月29日に船橋の太宰から鎌倉の川端へ宛てたもので、川端没後の昭和53年6月の「没後三十年太宰治展」(日本近代文学館)ではじめて公開された。川端はこれを大事に保管していたのであろう。前半部分を以下に引用する。(段落はわたしが適当に改行した。)
謹啓
厳粛の御手翰に接し、
わが一片の誠実、
いま余分に報いられた
心地にて
鬼千匹の世の中には
仏千体もおはすのだと
生きて在ることの尊さ
今宵しみじみ教えられました
「晩年」一冊、
第二回の芥川賞くるしからず
生まれてはじめての賞金
わが半年分の旅費
あはてずあせらず
充分の精進
静養もはじめて可能
労作
生涯いちど
報いられてよしと
客観数学的なる正確さ
一点うたがひ申しませぬ
何卒
私に与えて下さい
一点の駈引ございませぬ
深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが
右の懇願の言葉を発せしむる様でございます
困難の一年で
ございました
死なずに生きとほして来たことだけでも
ほめて下さい
東郷によれば、太宰と川端康成との間には、これ以前に芥川賞を巡って因縁めいたことがあって、芥川賞委員の川端が第一回の「芥川龍之介賞経緯」の中で太宰を「さて、瀧井氏の本予選に通った五作のうち、例えば佐藤春夫氏は、「逆行」よりも「道化の華」によって、作者太宰氏を代表したき意見であった。この二作は一見別人の作の如く、そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛ってゐるが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた。」と評したのに対し、太宰は文藝通信(昭10・10)で「おたがひに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。(中略)事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。・・・刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と反駁したという。
太宰は、昭和11年6月25日刊行の創作集「晩年」を川端に寄贈し、それの川端からの礼状に対する、折り返し状が上記の手紙であるが、上述のようなやり取りから1年もたっていない。東郷は、芥川賞の賞金の方が目当てだったとする。
太宰は、当時、パビナール(麻痺剤)中毒に苦しんでいて、このことも書いた「東京八景」には「気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち、金につまった。」とある。編集者などにも無心をしたというから、相当に困っていたのであろう。太宰は、こういったときの手紙も上手である。上述のような反駁の文章よりも相手に何かを頼むときの媚るような文の方がもっとうまいと思う。媚びてはいるがそれでいて相手の心も打つのである。
太宰治展をみてから、玉川上水の通りに戻り、その付近を散策した。駅近で、通りから入ったところに、『太宰治ゆかりの地 小料理屋「千草」跡』と刻まれた金属プレートがビルの植え込みの前にたっている。『この場所は、作家・太宰治が昭和22年7月より2階を仕事部屋として使っていた小料理屋「千草」の跡地です。』という説明もある。
ここから通りに出て右折し、少し歩いたところの歩道の植栽スペースに大きな石が置いてあり、となりの説明板に「玉鹿石(ぎょっかせき)」「青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月」とある。産地と6月からわかるように太宰に関係するものらしい。
この辺りが太宰と山崎富栄の入水の推定場所なのであろう。
太宰は、仕事場として、最終的に千草の2階とこの近くの山崎富栄の下宿先(野川家)の部屋とを使っており、玉鹿石のある入水の推定場所まではすぐである。歩いて2,3分程度ではないだろうか。わたしは、以前、心中のときの地理関係をよくわかっていない頃、太宰は夜半山崎と二人武蔵野をさまよい歩いたあげく行きついた「玉川上水」に身を投げたと思い込んでいたが、そうではなかった。あまりにも近いことを知って驚いた。わたしのイメージでは夜武蔵野の雑木林の小道をさまよう方が太宰の最後にふさわしかったのだが。
ぶらりと外出するように仕事場から出てすぐさま入水したのであろうか。昭和23年(1948)6月13日午後11時から14日午前4時までの間のことらしい。19日に遺体が発見されて、その日が命日となっており、太宰の誕生日でもあった。
太宰治展の後に印象に残ったことがあった。展示場からエレベータで下りたとき、一緒に下りて前を歩く二人連れの若い女性が「一人で死ねばよいのにね」と言うのを小耳にはさんだのである。このことを、玉鹿石の辺りをうろうろしながら、しきりに反芻した。「一人で」とは山崎富栄のことであろうか。そういう見方もあるのか。彼女らも相当の太宰ファンなのであろうか。そんなむかしのことをいっても、という思いにもかかわらず、なにか引っかかるものが残った。
太宰心中事件の後、山崎富栄による絞殺説や無理心中説などがあり、山崎に対する世間の風当たりは強かったらしい。山崎に対するファンの感情も推して知るべしである。嫉妬も混じったかなり激しいものだったのだろう。しかし、もし、それと同じ感情を現代の彼女らが持ったとしたら、それは当時と同じものではなく、太宰の作品に純粋に由来するものと考えるべきで、むしろ、驚くべきことは、60年後にもまだ若き人をそういう気持ちにさせる太宰の存在・普遍性であろう。まるで太宰が黄泉の国からよみがえったようではないか。その辺をぶらりと歩いていそうではないか。ささいな出来事から妄想がふくらんでしまった。
なお、太宰はちゃんと遺書を残しており、絞殺説や無理心中説は無理筋な見方というべきであろう。むしろ、そういった説がでた背景の方に問題がありそうである。
次に、三鷹駅の西側にある、中央線をまたぐ跨線橋に行ってみた。ここは太宰が住んでいた頃と変わっておらず、現存する唯一といっていいほどの当時の痕跡らしい。昭和4年(1929)竣工。近くに地下道ができたため、現在はあまり利用されていないとのこと。
太宰はここを訪れたらしく、ここで撮った写真がよく太宰関係の本に載っている。跨線橋に上がると、特に西側の眺望がよく、遠くに山並もみえる。太宰はこの上で津軽の方角を眺めていたという。
眺望がよく当時の雰囲気を残す跨線橋は三鷹の太宰散策のしめにふさわしいところであった。
参考文献
太宰治「走れメロス」(新潮文庫)
太宰治「ヴィヨンの妻」(新潮文庫)
津島美知子「回想の太宰治」(講談社文芸文庫)
永井龍男「回想の芥川・直木賞」(文春文庫)
松本侑子「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」(光文社)
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008no.262(都市出版)