東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

青山士

2010年02月12日 | 読書

岩淵水門の記事にでてきた荒川放水路完成記念碑の碑文が印象に残っていたので青山士(あきら)に関する資料を探したら次の本とサイトがあった。

 高崎哲郎「〈評伝〉技師 青山士 その精神の軌跡」(鹿島出版会)
 
土木学会図書館青山士アーカイブス

高崎の本により青山の前半生を簡単にたどってみる。
「青山士は明治11年(1878)9月23日、静岡県豊田郡中泉村に、青山徹・ふじ夫妻の三男として生まれた。中泉村は明治29年磐田郡に編入され、昭和15年(1940)見付町と合併し、現在は磐田市中泉である。」

生家は静岡県の旧家で、祖父の宙平の代で分家したが、分家した青山家が宙平の才覚で産をなしたようである。六人兄弟で、兄二人、姉、弟二人の4番目である。「長男、次男が養子となり、名目上の跡継ぎとなる。東京帝国大学工学部卒。内村鑑三の無教会主義クリスチャン。昭和38年(1963)3月21日死亡。享年84。」

明治29年(1898)東京府立尋常中学(のちの府立一中、現日比谷高校)を卒業し、一浪の後、第一高等学校に入学し、寮の同室に浅野猶三郎がいた。浅野は、内村鑑三の跡を歩んで後年無教会主義伝道師となるが、青山の人生行路を決定づけたとある。

「明治維新以降、キリスト教、中でもプロテスタント系のそれほど青年知識層に大きな影響を与えた宗教はない。これは昭和期のマルクス主義思想の影響に匹敵すると言っても過言ではない。文明開化の高揚の中で、キリスト教の世界に接近し、そこで「神」や宣教師と教会の世界に触れることにより、西洋に直接行ってみることのできない、つまり洋行のできない多くの青年たちも、近代文明や近代市民社会がどんなものであるかを感得した。信仰よりも西洋文明が青年たちをキリスト教に近づけさせたとも言える。」

「内村鑑三は札幌農学校第二期主席卒業生で、在学中にアメリカ人宣教師メリマン・C・ハリスから洗礼を受けクリスチャンとなった。」「内村の札幌農学校入学は明治10年(1877)9月であり、翌年青山が生まれた。」内村の同期には新渡戸稲造や廣井勇(いさみ)らがいて、廣井は青山の大学時代の恩師となる。

高崎は、内村鑑三が明治27年7月にキリスト教徒第六夏期学校で講演した「後生への最大遺物」(明治30年発行)が青山を内村の門に向かわせたことは間違いない、としている。この本は岩波文庫「後生への最大遺物 デンマルク国の話」で読むことができる。

「後生への最大遺物」で内村は、人間が後世に遺すことのできる遺物は勇ましい高尚なる生涯であるとし、勇ましい高尚なる生涯とは、この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずること、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去ることである。

どうやら、これが内村の信仰の内実のようである。神は絶対的なものとしてつねにあり、これを信じることは神が支配する理想の世の中を信じることにつながる。内村の絶対的な神を前提とする理想論こそ青山を引きつけたものではないだろうか。この本で内村は箱根用水などの土木事業についてかなり言及しており、高崎によれば、同書が土木技師青山を生み出した。

内村は明治33年(1900)10月「聖書之研究」を発刊し、青山は東京帝大土木工学科入学後、この定期購読者になると同時に毎週日曜日午前10時から新宿角筈のクヌギ林の中の内村邸での「聖書講読会」に欠かさず出席した。このグループには小山内薫、大賀一郎(ハスの研究者)、浅野猶三郎らがいた。

「聖書之研究」第25号74頁にある青山の次の「感想録」(祈文)が紹介されている。

「在さざる時なく、亦所なく、万事を知り、為し能わざることなき愛なる父の神よ、私は実に汚れに穢れたるものでありまして、此の感想録を書くに当りましても尚お飾って書かんとしたものであります。又感じたこと以上のことを書いたかも知れません。どうぞ願わくはこれ等多くの罪より私を洗い潔め給え、又どうぞ我等に汝の真理を伝うる貴き器となりし諸先生方及び諸兄姉方を祝し給いて益々裕かに彼等の上にあなたの聖霊と恩寵とを下し給わんことを、又私は爾(あなた)の真理の説明者たるのみならず、爾の御業の真の証明者たるべきことを感じ、又爾に倚る喜びを感ずるものであります。どうぞ此の感を取去ることなく如何なる悪魔の剣も之を切り去ることなき様御守りあらんことを、又此の賤しきものをも爾の器となし給いて爾の為め、我国の為め、我村の為め、我家の為めに御使い給わんことを、又私は信仰弱きものであります。故に或は悪魔の誘いの為めに、あなた、あなたの御子及び師又は兄弟を売るに至らんことを恐るるものであります。・・・」

「聖書之研究」同号にある、青山の「感想録」に対する内村の「註」も紹介されている。

「斯かる祈を捧げ得る人が工学士となりて世に出る時に天下の工事は安然(ママ)なるものとなるべく、亦其の間に収賄の弊は迹(あと)を絶たれ、蒸汽(ママ)も電気も真理と人類との用を為すに至て、単に財産を作るの用具たらざるに至らん、基督教は工学の進歩改良にも最も必要なり」

青山は絶対なる神を前にして一見弱々しく自らの罪と信仰弱きことの許しを請うているが、これが内村の好みにあったのだろうか、土木工学を目指す青山を、単に財産を作るためでなく真理と人類のために、と励ましている。さらに、工学の進歩は真理と人類のためにこそあるべきことを示唆している。こういった理想論は、キリスト教を背景にしてもしなくとも、若い者を魅了するものである。理想論を信じるにたる明治という時代背景の下でしか成り立ち得なかったものとしても。

かくして真理と人類のためという大きな理想を持つに至った青山は、パナマ運河開削工事に参加すべく、明治36年(1903)8月11日、単身で横浜港から発つ。

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