午後大塚駅下車。
南口から天祖神社へ行こうと、都電荒川線を右に見て坂道を上るが、なかなか風情がある。天祖神社から駅前南口に戻り、大塚三業通りの入口へ。
詩人の田村隆一は大正12年(1923)3月に大塚で生まれている。「当時の大塚はまだ東京の市外で、北豊島郡巣鴨村字平松というのが正式な地名。祖父重太郎(明治元年~昭和23年)は、大正9年9月1日、大塚の雑木林をきりひらいて、鳥料理専門の割享『鈴む良』を創業、大塚三業組合(料理屋、待合、芸者屋の三業者による組合)の創業者のひとり。したがって、ぼくの生れた環境は推して知るべし。」(現代詩文庫、田村隆一詩集、思潮社)
大塚三業通りを進むが、かなりうねっている。天祖神社にあった昭和初期の地図を見たときに気がついたが、ここは川だったようである。谷端川(やばたがわ)である。上流部の豊島区内では、谷端川、文京区内では千川、小石川、礫川と呼ばれ、長崎村の粟島神社(現・豊島区要町二丁目14番)の弁天池が水源とされ、千川上水の分水を合わせて南流した。現在、上流部の谷端川は暗渠化され下水道となり、西池袋四・五丁目では谷端川緑道となった(菅原健二「川の地図辞典」)。帰宅後調べたのだが、驚いたことに小石川の上流であった。地名ともなっており、永井荷風の生誕地である。
途中、左折し進むと、あさみ坂の上りとなる。かなりの急坂である。直進し、突き当たりを右折し、次を右折すると、ゆるやかに曲がった下りである。しばらくすると、東福寺がある。真言宗豊山派に属し、観光山と号す。小石川大塚にあったが、元禄4年(1691)に当地に移ってきたとの説明がある。坂上から東福寺までの道は狭いがよい通りである。門前に至るので昔からあった道なのであろう。いまの景色から往時を想像するのが楽しい。
次を左折し、坂を上るが、誤ったらしい。次の十字路を左折すると、さいとう坂であるが、静かな住宅地である。ここまでの坂はすべて谷端川から上る坂である。大塚三業通りに戻り、途中から西側に向かうが、大きな通りが三本あり、方向がわからなくなる。大きな通りは年代的には後からできたものであり、昔からの道を分断するからなのか、こういったことがよくある。
春日通りを新大塚駅方向に向かうが、途中で小路に逃げ込むように入って、ようやく昔からの道と思われる坂下通りにでる。この辺りは旧大塚坂下町とのことで、由来は護国寺へ下る富士見坂の坂下の北側にある町であるからとの説明が案内板にある。途中で右折すると、開運坂の上りである。まっすぐに延びた坂である。途中にある案内板によると、坂名の由来は不明とのこと。
坂上から大塚先儒墓所を目指す。江戸時代の儒学者の木下順庵や室鳩巣などの墓があるらしい。種村季弘「江戸東京《奇想》徘徊記」によれば、儒者棄場と呼ばれており、葬儀のとき死体を置き去りにしていったからとのこと。儒葬は手厚く葬る一方、道教系の荘子は自分が死んだら野原に放り出せと弟子たちに命じたらしく、儒葬ではなく道葬ではないかというのが種村の結論のようだ。
細い道の途中に「大塚先儒墓所」と刻んだ石柱がたっている。内に入ると、鉄扉に鍵がかかって入れない。説明板によると、近くの吹上神社で鍵の貸し出しをやっているとのこと。神社に行ってみたが、それらしいところが見つからない。吹上稲荷神社をでて右折し、小路を進むと、富士見坂の坂下にでる。
荷風の「断腸亭日乗」に昭和12年3月26日にここを訪ねた記事があると紹介されている。「晴れて風甚寒し。午後大塚坂下町儒者捨塲を見る。徃年荒凉たりしさま今はなくなりて、日比谷公園の如くに改修せられたり。路傍に鉄の門を立て石の柱に先儒墓所と刻したり。境内に桜を植ゑたるなど殊に不愉快なり。」
(続く)