東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

消えた地名・その記憶

2010年02月21日 | 荷風

断腸亭日乗など永井荷風に関する本を読んでいて地名がでてくると、よく地図をみるが、地名変更で消えている場合も多い。古い地図でみればよいが、現在との対比が大変である。現代の地図でもよくみると、その地名は消滅しても、別の形で残っていることも多い。すなわち、消えた地名が記憶されている。

明治12年(1879)12月3日生まれの荷風の生誕地は、小石川金富町45番地で、現在の文京区春日二丁目20番地であり、その地名は消えているが、現代の地図をみると、金富小学校がある。今井坂を下って水道端の通りにでた左側である。また、「金富町」が建物名についた集合住宅もあるようである。ところで、荷風は明治19年春、小石川小日向服部坂の私立黒田小学校初等科に入学しているが、当時は金富小学校はまだなかったのであろう。黒田小学校が現在の区立第五中学校である。

荷風は、5歳のとき弟の貞二郎が生まれたことから、下谷竹町4番地の鷲津家にあずけられた。鷲津家は荷風の母、恆の実家であり、恆の父、毅堂はすでに没していたが、母、美代が健在で、この外祖母に養育が託された。この下谷竹町の地名も消えているが、現在、大江戸線新御徒町駅の南側で佐竹商店街の西側に、竹町公園があり、そのとなりに竹町幼稚園がある。ここから下谷竹町4番地は少し離れた位置のようである。

荷風「断腸亭日乗」大正13年4月20日「午後白山蓮久寺に赴き、唖唖子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を写し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。・・・」

蓮久寺は東洋大学の近くで白山五丁目に、本念寺は白山四丁目にあるが、原町という地名は消えている。ところが、現代の地図をみると、小石川植物園の近くに「原町寮」という施設があり、その地名が残っている。会社か官庁かどこかの寮と思われるが、かなり前からあるのであろう。

荷風は、本念寺から御薬園阪を下っているが、この坂は、別名鍋割坂、小石川植物園内に位置し、いまの植物園入口から上る坂道のそば辺りで、植物園東側の御殿坂と並行な坂である。この坂を下って極楽水に出たとあるが、ここは、現代の地図には示されていないが、播磨坂と吹上坂との間にある大きなマンションの脇の小公園内に極楽の井の跡として残っている。

偏奇館の近くにあった山形ホテルは、断腸亭日乗によく登場し、荷風が食事や接客のときによく利用していた。大正6年にロンドン帰りの山形厳によって建てられた小さなホテルだった。その子息が俳優の山形勲(大正4年生まれ)で、小学生のころホテルの食堂に来た荷風を憶えていると語ったらしい。

位置的には、現在の地形からまったく想像できないが、偏奇館から谷ひとつへだてた向かいの崖の上である。現在の泉ガーデンの通りと、霊南坂からの通りが右に曲がって続くサウジアラビア大使館のある通りとの角に「山形ホテル跡」の説明板がたっている。荷風のことも当然に記されているが、この説明板がある建物名が「麻布市兵衛町ホームズ」である。これを知ったときは、本当にうれしかった。よくぞ残してくれましたと感謝したい。

前の記事の飯倉も地名から消えているが、飯倉片町、飯倉の交差点名として、また、外務省飯倉公館や飯倉ヒルズという建物名として残っている。

荷風関連でちょっと調べただけで多くの例があるように、同じように消えた地名の記憶が残る各種名称はたくさんあるに違いない。

参考文献
東京23区市街図2005年版(東京地図出版)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂書店)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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