東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

紀伊国坂(竹橋)

2015年08月12日 | 坂道

街角案内地図 紀伊国坂下 紀伊国坂下 紀伊国坂下 前回の展望台から二の丸跡の雑木林の方へ行ってから、平川門を通り抜けて平川橋を左折し、竹橋方面に向かう。

竹橋を左折すると、広い車道(代官町通り)が西側へまっすぐに延び、その左側に歩道が同じくまっすぐに延びている(現代地図)。ここが紀伊国(きのくに)坂である。

同名の坂が港区元赤坂にあり、元赤坂一丁目の青山御所の脇から迎賓館の方に向けて上る坂である。両方とも紀伊国坂と書くが、横関はこの竹橋の方を紀の国坂としている。

紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹坂下の竹橋からかなり緩やかに上っている。この坂は、皇居周りのジョギングコースの一部となっているが、この坂を上る方向に走る人にとってはこの程度でもけっこうきついかもしれない。

この坂は、天和二年(1682)の戸田茂睡による「紫の一本」に上記の同名の坂とともに次のように記述されている。

『紀之国坂
 赤坂風呂屋丁の横丁より、赤根山に登る坂を云ふ。今紀の国の御屋敷と成るゆゑ、紀之国坂と云ふなり。赤根山に登る坂ゆゑ、この坂を赤坂といひたるゆゑ、今この近所を赤坂と云ふなり。また松原小路より竹橋の御門へ下る坂をも、紀之国坂と云ふ。今の灰小屋の所、もと尾張紀の国の御屋敷ありし故なり。』

この坂は、松原小路より竹橋の御門へ下るとされているが、松原小路とは、糀町壱丁目御門の内をいうとある(「江戸鹿子」)が、具体的にどこかよくわからない。尾張や紀の国の屋敷があったので、紀之国坂となった。

明暦の大火・振袖火事(1657)で江戸城本丸や二の丸が焼失したが、このとき両屋敷も焼けたので、尾張藩邸は市ヶ谷、紀伊藩邸は赤坂に移し、その跡地を火除地とした(石川)。灰小屋(灰を備蓄しておく)は、その火除地にあったのであろう。

紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 坂をかなり上り、北桔橋門のちょっと手前でふり返ると、右手前方に平川濠が広がっている。

三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、竹橋御門の上(西側)に空き地があり、チョウセンバゞウエダメ(朝鮮馬場植溜)と記してあるが、このわきの道を紀之国坂と呼んだのであろう。

四枚目の御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865))の部分図にも、竹橋御門の上(西側)に朝鮮馬場植溜と記してある。このあたりから半蔵門にかけての一帯を代官町といった。近江屋板にもほぼ同様に描かれている。

紀伊国坂中腹 紀伊国坂上 紀伊国坂上 紀伊国坂全景 この坂は、北桔橋門の近くの歩道橋のある所からさらに上る(かなり緩やかである)。まっすぐにちょっと歩くと、派出所があるが、そのあたりでほぼ平坦になっているので、このあたりが坂上であろう。

そのわきの小さな公園で一休みしてから坂を下る。

ちょっと下ったところの歩道橋で道路の反対側に渡る途中、高い所からこの坂のほぼ全景を望むことができる。

天和二年(1682)の「紫の一本」が書かれた当時から現代まで、この近辺がどのような変遷をたどったかいまいちよくわからないが、明暦の大火の後から続く比較的古い江戸の坂と云えそうである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社) 岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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