「思う」という言葉が存在できるのは「思わない」が存在するから、と思う。
「こういう」という言葉が存在できるのは、「あーいう「そういう」が存在するから。
西という言葉が在るのは東という言葉が在るからこそであり、
北という言葉が在るのも南という言葉が在るからこそ。
私という言葉が在るのはあなたという言葉が在るから。
コーヒーを入れたカップが今この机の上に在る。
「コーヒー」という言葉は「コーヒー」という言葉以外の言葉があるから、
コーヒーでいられる。変な表現かな。
入れたという言葉も入れてないという言葉があるから存在出来る。
「カップ」もそうだ。カップ以外はカップと言わないから。
「が」という助詞もそうだ。「が」以外の助詞があるから。
「は」「と」「も」「に」「を」という助詞が在るから、「も」が「も」でいられる。
「今」もそうだ。今以外の時があるから。
「在る」もそうだ。「無い」があるから
言葉は認識。
観念動物である人間が世界を認識するにはそういう方法しかない。
認識というモノは相対的にならざるを得ないのは仕方が無い。
論理・認識というのは相対的。事実・存在は絶対。
地球が在る そのことは絶対。だけど、その認識は相対。
「無い」という言葉があるからこそ「在る」という言葉があるのだから。
言葉を思うと、言葉の最初はどういうふうに現われたんだろう????と思う。
聖書によると初めは言葉は一つだったらしいが、
なにかで幾つもに分かれた・・らしい。
勉強不足でそれくらしか知らないんだけど。
言葉の始まりの始まりの始まり・・を思うとこの世に居ないような気分になる。
「こういう」という言葉が存在できるのは、「あーいう「そういう」が存在するから。
西という言葉が在るのは東という言葉が在るからこそであり、
北という言葉が在るのも南という言葉が在るからこそ。
私という言葉が在るのはあなたという言葉が在るから。
コーヒーを入れたカップが今この机の上に在る。
「コーヒー」という言葉は「コーヒー」という言葉以外の言葉があるから、
コーヒーでいられる。変な表現かな。
入れたという言葉も入れてないという言葉があるから存在出来る。
「カップ」もそうだ。カップ以外はカップと言わないから。
「が」という助詞もそうだ。「が」以外の助詞があるから。
「は」「と」「も」「に」「を」という助詞が在るから、「も」が「も」でいられる。
「今」もそうだ。今以外の時があるから。
「在る」もそうだ。「無い」があるから
言葉は認識。
観念動物である人間が世界を認識するにはそういう方法しかない。
認識というモノは相対的にならざるを得ないのは仕方が無い。
論理・認識というのは相対的。事実・存在は絶対。
地球が在る そのことは絶対。だけど、その認識は相対。
「無い」という言葉があるからこそ「在る」という言葉があるのだから。
言葉を思うと、言葉の最初はどういうふうに現われたんだろう????と思う。
聖書によると初めは言葉は一つだったらしいが、
なにかで幾つもに分かれた・・らしい。
勉強不足でそれくらしか知らないんだけど。
言葉の始まりの始まりの始まり・・を思うとこの世に居ないような気分になる。