ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「日本人の知的風土」を読んで

2013-02-10 15:39:21 | 本を読んで
先月末に、「思うという言葉」でちょっと書いたけど、

それに加えたのを著者のひと宛てに書いてみた。

出すかどうかまだわからないけど、もしよければ読んでみてください。

何度も読み直すと、書き換えたくなって何度か変えた。

今日は3月8日。又変わるかな。

第3章の「言葉と発想との関わり」の中に、「『思う』が論理力を破壊する」とあり、「思う」とか「思います」などの用法が私たちの論理的な思考の展開を邪魔してしまうのである。こうした表現を出来るだけ少なくするように努力することから、私たち一人ひとりが、あらゆる物事について論理的に思考できるようになるのだと推測しているのだが、いかがであろうか・・(92頁)
という文章があったので、自分の思うところを表現してみます。

「会議を始めたいと思います」という用法について、何故会議を「始めます」としないのか不思議だが・・(90頁)とありますが、この問いが発される前提には会議は~時から始めるということになっているというものがあるかと思いますが、会議は何日の何時からと決めたが、予定はなんらかの都合によっては幾らでも変わる可能性はあるものであるという含みがその言葉の用法に表われているのではないかと私は観ています。

「こういう言い方が謙譲の気持ちでなかったとしたら、個人的に思うだけだから、“始めたい”のなら、勝手にどうぞということになってしまう、」とありました。その通りだからこそ、その後に(思います)を付けるのかと思います。
なぜなら、個人的には始めたいが、(皆さんはどうか?)があるからこそ、(思います)を自然と付けたくなってしまうのかと思います。
日本語を日常的に使うことによって、日本人の潜在意識に(ひとは他と“共に在る”)という考えが根付くようになったのではないかと云う仮説を私は持っているのですが、あの震災後の日本人の在りようが世界的に話題になったことも、日本語という言語が思考に及ぼす影響をしめすものではないかと思っています。
それが謙譲の気持ちの現われという解釈もあるようですが、謙譲というより、
他と共に物事を進めるのは当然というような認識、会議はその場に居る全員で為されるものという認識が日本語の用法にあるのではないかと考えています。

実際にどんな物事も現象も一人の力で動くものではないのは事実です。
一人で大きな力を持つ人もありますが、その力でさえ、それに賛同する(反対しない)多くの人間が存在する事によって成り立つものです。

全ての現象が相互関連作用でなるものだという法則にこうした日本語の用法はマッチしているのではないかと思います。
 常に現象は止まることなく動き続けているものだという事実や、個人の考え一つで物事はなるものではないことを、“日本語の用法”は知っているかのようです。

また、・・・「思います」は不要であり、だが、さすがに書かれた文章にはこういう用法はほとんど見られない(90頁)ともありましたが、書き言葉と話し言葉は用法が違うものですので、それは当然かと思います。
書き言葉はそれを書いたその時の個人の認識を表現するものであり、その場で他者と何かを為そうとする場ではないからです。
他とのコミュニケーションのために書かれた文章はありますが、その書かれた文章自体はコミュニケーションの場ではないのは当然です。
コミュニケーションの場ではない論文を書くのに、これから論文を書こうと思います、などという場違いな表現はしないのも当然かと思います。

「そこに花が咲いている」という言葉があります。そこに花が咲いていても、それに何の関心も無ければ「そこに花が・・」という言葉は現われないという意味で、言葉は常に今ここという時空での認識を表わすものですが、この場合(思う)をつけないことで、それは自分個人の考えではないこと、その存在が存在していることを言っています。
「そこに花が咲いていると思う」は、それが今そこでの自分の思い・考えに過ぎず、事実はどうかわからない、その花は存在していないかもしれないということがその言葉遣いで示されています。こういった思いは後々変わるかもしれないという前提がそこにはあります。

目の前に花が咲いているのに、「そこに花が咲いていると思う」と言う人はまず居ないか、目の見えない人なら香りを感じてそう表現することがあるかもしれません。
また、「在る」と言い切る表現と、「在ると思う」という表現がありますが、実際在るかどうかわからないことでも、(思う)を付けずに「在る」と語気強く言う場合もあります。在るに決まっている、というような思考です。
そのような表現の仕方を聞いて、それを発したひとのその時の心境も覗えたりすることもあります。在るかどうかわからないことを在るとか無いとか言い切ることのナンセンスさがその言葉の調子でわかることもあります。
また、事実無いものを無意識的に在ると勘違いしている場合も「思う」を付けずに「在る」と表現する場合もあるものです。その場合は思い込んでいるそのことが「思う」をつけないことで現われています。

「あそこの鰻は美味しかった」という言葉でも、語尾に(思う)をつけるかつけないか、私たちはその場の相手の在りようによって無意識のうちに選択しています。
相手が「アンタがそう言ったから行ったけどちっとも美味しくなかったわ・・」
なんてことを言いそうな人には、「私は美味しいと思ったけど、あなたがどう思うかはわからないわ・・」などと付け加えたくなるし、そんなこと説明しなくてもわかっていると思われるひとには「美味しかったよ」だけで済みます。相手の認識レベルによって使い分けています。

「頑張りたいと思います」が「頑張りたいです」と「頑張ります」では何故いけないのかと、私は考えてしまう。“思います”がついたら個人的な感想を述べているだけだというふうにとられても仕方がないであろう・・・(91頁)という記述がありますが、
「頑張る」ということ自体個人的な感想、個人的な意志なのでそういうふうに受け取られて当然なのではと思いますし、言葉は表現であり、認識ですので、表現が違うということはそれを発する本人に自覚があろうとなかろうと、認識が異なるからだと思います。
「頑張りたいです」でもなく、「頑張ります」でもなく、「頑張りたいと思います」と発したのは、その表現を意識的にか無意識的にか、その人は選択したわけです。
 「思う」の前に動詞がある場合、例えば「歩く」だったら、「明日は遠足でたくさん歩くと思う」というように近い未来であっても今より時間的に後にすることを思うとき、「思う」を付けます。
「歩く」という動詞は形は現在形ですが文章の内容からいうと、未来の自分の姿を云っています。それに比べ「思う」はその言葉を発した今ここの自分の姿を云っています。
「頑張る」も「歩く」と同じことですので、明日頑張ることを今思っているということで、「頑張りたいと思います」でなんら問題はないと思うのです。
「思う」「在る」以外の動詞の現在形のその内容は全て未来を表わす言葉です。今ここという時空で未来のことについては「思う」としか言いようがないことを言葉が語っています。今ここという時空は「思う」と「在る」の動詞しか使えないという日本語の用法はとても哲学的です。
「頑張りたいと思います」という表現も実に事実に則している用法です。また、頑張りたいと思った瞬間より、その言葉を発した時点の方が時間的に後なので、「と思います」が後に付きます。
頑張りたいです、頑張ります、頑張りたいと思います、頑張るつもりです、頑張る予定です、頑張ろうと思います、頑張る!など、どれもみな微妙にニュアンスが違います。そういう言葉を発する時がどういう時なのか、場の様子はどんなものなのか、それをいう相手は誰なのか、どういった立場の人なのか、それを言う自分のたった今の認識はどんなものなのか、そういった全体を感じ取り、無意識のうちにそれに相応しい言葉が表現されます。幼い子供はそういった全体を見る目がまだないのでそれなりの言葉ですが。
このように「思います」を語尾につけるかつけないか、無意識のうちに日本人は選択していると思われます。
言葉の用法の豊かさ、きめ細かさは日本人の心の在りようが豊かであり、粗っぽくないことの証しかと観ています。それは日本語という世界に類を見ない言語によって培われたものと思われます。

 先生が仰られている日本人は“物分りがいい”ということも、そういう日本人の在りようを表わしているように思います。「大は小を兼ねる」ように、認識という許容量が大きいと物分りはよくなってしまうものです。

 桜井先生の文章に、日本人が書いた英文の論文をアメリカ人にはわからなかったが、先生が読んでみたら何をいいたかったのかわかったという箇所がありましたが、そのことも先生の物分りのよさ、許容量の大きさを示すものかと思います。
その論文を書いた日本人本人が英文に翻訳したのか、別の人が翻訳したのかわかりませんが、本人がしたのだとしたら、英語が日本語と同じくらいのレベルでなかったということでしょうし、別の人が翻訳だけしたのだったら、その人はその論文の主旨がわかってなかったことか、やはり英語に堪能ではなかったかのどちらかなのかと思います。

同じ日本人であっても、微妙な、けれど確かにそこに存在するニュアンスを感じ取れない人もあるでしょうし、「文は人なり」という言葉が日本にありますが(外国にもあるかどうかは無学な私は知らないのですが)広辞苑には人柄が知れるとありますが、人柄だけが文からわかるのではないと私は思っています。やはりその人の認識のレベルが出てしまうということもあると思います。 
 
日常の暮らしの中でも、存在と認識の相異を私たちは言葉で表わしています。
そのような日本語という言葉、その用法は、かなり高度なものではないかと私には思えます。
「思う・思います」のある無しには深い洞察が潜んでいると私は思っています。

論理的な展開の仕方に納得が行かない、論理的に説明してほしいと先生が話した時に「ここは日本なのだということを忘れないでほしい」という注意があったようですが、その発言を通して伝えたかったことはその人の中にあるのだろうけれど、それをそのまま観察し、言語に変える力を持ってない未熟さがそういう言い方をさせたのかと思いました。

先生の仰る通り、論理的に一点の不備もないような日本語での論理の展開の仕方、導き方というものはあり得ると私は思っています。行間を読めというような表現が日本語にはありますが、その行間をも論理的に説明することは可能だと私は思います。言わぬことで言っている、ということは確かにあるからです。
考えるとは言葉で考えると云うこと以外ないもので、この世にある全ての言葉は相対的なものである以上、言わぬ事で言っているということがあるのは当然です。それは言葉という相対性の場での哲学的思考であり、それは論理的思考といえるものかと思います。

日本人なら通じるという思考停止をしてはならないのである(145頁)の言葉は全くその通りと思います。それは怠慢の一言につきます。論理はいつでもどこでも辻褄が合ってこそ論理ですから。

ここは日本なのだ、というような理由で誤魔化してしまうことがなくなるには、日本人の中にある“物わかりの良さ”というものがどういう思考の展開でそのようになっているのかを観察できてこそ論理的に説明することもできるのかと思います。そして、それが出来るようになるまで、今のような状態は続くのかと思います。

それにしても、論理に至る前の最初の取っ掛かりは感覚や感情であると私は思っています。

日本人がアメリカ人に比べて論理的でないという指摘はあまりに大雑把で一面的であるように思います。私は日本語という言語で表現する世界は深いと思っています。
思ったことを書きました。ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。