現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。
現実は予想出来ぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。
現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。
それにもかかわらず現実はその根底において、
常に簡単な法則に従って動いているのである。達人のみがそれを洞察する。
それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。
詩人のみがこれを発見する。
達人は少ない。詩人も少ない。
われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。
そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、現実のように不安になる。
そして現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気がつかないのである。
現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。
・・湯川秀樹(昭和十六年一月)
凄い詩だと思う。この文章は前にも引用したことあるけど、
この文章の視点はどこにあるのか?
現実は簡単な法則に従って動いている、そのことを達人が洞察する。
現実はその根底で常に調和している、そのことを詩人が発見する。
・・現実は簡単な法則で動いている、現実はその根底で常に調和している、
とわかっているのがコレを書いた湯川秀樹であり、
ということは湯川秀樹が達人であり、詩人ということになる。
もしくはそれ以上の存在ともいえる。
そして、われわれ凡人は複雑になり、不安になり、広大な真実の世界が横たわっていることに気づかない、と湯川秀樹は観察している。
けど、「凡人は~に気づかない」と湯川博士はわかっている。
広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないとわかっている、ということは
やはり、広大な真実の世界が在ると彼はわかっている、ということ。
が、われわれというからには、それを書いた湯川秀樹という自分も含まれるわけになるけど、
湯川秀樹という一人のひとの中に、達人や詩人や凡人が居るということなんだろうな。
・・・ということはその時その時の意識が在るだけのこと。
一人の人間は物質的にも細胞の集まりで、それは動的平衡という在りようだし、
意識という目に見えないものも素粒子の集まりで動的平衡を繰り返している・・
ということなんじゃないかな。