ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

な 

2013-02-13 16:00:18 | 言葉
それ“なら”それで の「な」

それ“なり”に の「な」

どうなの の「な」

なぁに? の「な」

なんだろう? の「な」

自分“なり”に の「な」

なるべく の「な」

なるほど の「な」

「な」という字は凄い。宇宙・世界は「な」。

「な」は相互関連現象の連なり。

達人 詩人 凡人

2013-02-13 14:23:05 | 言葉
現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。

現実は予想出来ぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。

現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。

それにもかかわらず現実はその根底において、

常に簡単な法則に従って動いているのである。達人のみがそれを洞察する。

それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。

詩人のみがこれを発見する。

達人は少ない。詩人も少ない。

われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。

そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、現実のように不安になる。

そして現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気がつかないのである。

現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。

・・湯川秀樹(昭和十六年一月)

凄い詩だと思う。この文章は前にも引用したことあるけど、

この文章の視点はどこにあるのか?

現実は簡単な法則に従って動いている、そのことを達人が洞察する。

現実はその根底で常に調和している、そのことを詩人が発見する。

・・現実は簡単な法則で動いている、現実はその根底で常に調和している、

とわかっているのがコレを書いた湯川秀樹であり、

ということは湯川秀樹が達人であり、詩人ということになる。

もしくはそれ以上の存在ともいえる。

そして、われわれ凡人は複雑になり、不安になり、広大な真実の世界が横たわっていることに気づかない、と湯川秀樹は観察している。

けど、「凡人は~に気づかない」と湯川博士はわかっている。

広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないとわかっている、ということは

やはり、広大な真実の世界が在ると彼はわかっている、ということ。

が、われわれというからには、それを書いた湯川秀樹という自分も含まれるわけになるけど、

湯川秀樹という一人のひとの中に、達人や詩人や凡人が居るということなんだろうな。

・・・ということはその時その時の意識が在るだけのこと。

一人の人間は物質的にも細胞の集まりで、それは動的平衡という在りようだし、

意識という目に見えないものも素粒子の集まりで動的平衡を繰り返している・・

ということなんじゃないかな。

「心と他者」

2013-02-13 10:13:56 | 本を読んで
この前の旅の帰り、電車に乗っている長い時間退屈しないように、駅で本を買った。

「心と他者」という文庫本が目に留まり、それを買った。

大森荘蔵さんという哲学者の弟子?の野矢茂樹さんという人のものだった。

まだ途中なんだけど、印象的なのが、

「外界に対する内界として『心』を考えるのではなく、

私と他者が世界に対して異なる意味を与える、その場面において

『心』の意味を捉えたい」という文章だった。

量子力学の、観測することでその対象が変化する、そのような相互作用で心は変化する、

といったことと通じると思ったけれど、

全体の文章を読んで感じたのは、

学者の哲学者というのはこんなふうに七面倒くさく考えるのか、だった。

何故それを考えるのか、何故それを考えたいのか、という基盤?が、

山岸さんとその学者では大違いなのかと思った。

仏陀も哲学者だったと思うけど、その仏陀やキリストや山岸さんに在って、

その学者に無い(か、どうかわからないけど)のは、

人類への熱き思いというか、人類の幸福を願う情熱というか、

そういったものかと思った。

思考の基盤にそれがあるとないとでは思考の展開の仕方が違うのは当然なのかと思う。


出すこと

2013-02-13 09:48:37 | ひとの幸福
「軽く出す」という言葉を昔よく聞いたけど、

なんのこっちゃと思ったこともある。

表現することも出すことだ。出すと展開が変わってくる。

心や気持ちに在っても、それを出さないと展開が変わらない。

どうしてなんだろう???

グチなんかでも出すと出さないとでは違う。出すと展開が変わる。

その展開が長く拡がりを持つものと、その時だけに終わるものとはあるけれど。

それは聞く側の懐の深さと、出す側の出し方に関係する・・・?

それにしても、どうして出すと展開が変わるのか???

ウンコも出すと展開が変わる。出すことで身体の状態が変わる、

中にあったものが外に出るので、身体は軽くなる。

そんなふうに身体の状態が変わると気持ちの状態も変わる。

身体も気持ちも軽くなる。

どっちも“重いと感じる”のはあまりいい感じじゃない。

・・ということは“軽さ”が正常さの目安か・・

それは絶対的な体重の重さじゃなくて、

或る重さから或る重さに、軽く“なる”という相対的な軽さのことで。

そう、“なる”というのは“なってない”状態からでないと“なれない”もんだからね。

・・・これは脱線だった。


出すと何故変わるか?身体も気持ちも。

人に出さなくても変わる。こうして一人で文を綴ってもそのことで変わることは多い。

『やりとり』で変わる・・・そうか・・そうなんじゃないか・・!

出す自分とそれを聴く他者とのやりとり。書く自分と読む自分とのやりとり。

同じ自分であっても書くときとそれを読むときは既に時間がちがう。読むのは書いた後。

やりとり・相互作用で変化するもの。

考えてみれば当たり前という感じの結論になったなぁ。

日本人の知的風土を読んで・・という奴も、出してから、

読み返す度にあれ?と思ったりして書き換えてる。