ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

女装する気持ち

2013-02-18 22:08:14 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞に女装する男のひとについての特集記事があった。

女装すると気持ちが変わるという。

男として暮らしているとストレスを感じることが多くあるので、

“女になる”という経験で息抜きが出来るという。

男である自分が自分を“女”として扱うことで楽になる。

こういう経験はないけれど、若い頃、一人旅ばかりしてたのは、

自分じゃない自分になるためだった。

いつもの自分を全く知らない人たちの中で、伸び伸び出来た。楽に呼吸できる感じがした。

その頃、会社の中で結構暗い心境でいた。

自分の居場所が無いような、どう見られているかがいつもあって、自意識過剰で、

自分で自分を窮屈にしてた。悪循環の中に居たようだ。

なので、2,3日でも連休があると、知らない人の中に身をおいた。

私を知らない人は私に対して白紙だ。

せいぜいその時の印象だけだ。

周りの人からどう思われているか、を持たない私で居られる。

ここではどんな人にでもなれると、無意識のうちに思ったんだろうな。

大金持ちだとか身分を偽るとかの嘘は付かなかったけど、

子供のように明るく楽しめる人になれた。

別人になりたいという望みは場所を変えなくても、姿を変えなくても、

自分がこう思われているんじゃないかという枠を外せば、

出来るんじゃないかと思うけれど、それは口でいうほど簡単じゃない。

女装したり、ひとり旅に出るのは、(こう思われている)と思い込んでいる意識はそのままにして、

手っ取り早く自分が変われるから、魅力なんだと思う。

普段の顔がないということは仮面が無いということだ。

普段の顔ってパーソナリティ、語源は仮面だそうだから。

仮面は仮面で本面?ではないんだね~


また、今の自分が一人旅に行きたいと思うことがないのは、

どう思われているか、がほとんどなくなったからだろう。

なので、その旅をする意味がなくなった。

一人より気のおけない人と一緒に旅する方が今は楽しい。








2013-02-18 10:36:29 | ひとの幸福
小さな子供が車の運転席に座りたがる。こういうことはあるもんだ。

なんでもやりたがる。なんにでも興味が湧く。

けれど、実際の運転中に運転席に座らせたらいけない。

膝に乗せたらいけない。

ハンドルに触らせたらいけない。

こういう時に、やる気があるということだし、近い距離だし、

他の車も通らないし、歩行者も居ないし・・とかいって

運転席に座らせないという自分の意志を曲げるのはいけない。

こういうことが「躾」という名前の内容なのかと思った。

今まで「シツケ」という言葉に違う解釈をしてた自分だったよ。


いくら座りたいといって泣き叫ぶ、意志が強い子供でも、

その子供の安全のため、私のため、今と未来の周りのため、未来のその子のため、

今、ダメ!という意志を曲げたらいけない。

こういうとき言葉も体罰も要らない。

座らせないという強い意志の下の実力行使だけでいいのかと思う。

幼児期にこういうことを周りの大人がちゃんとすること、

自分の気持ち・意志で自覚的に生きること、をしてたら、

12才くらいからは脳波も大人と同じようになるということのようだし、

なんでも本人の意志に任せるのがいいのかと思う。

周りの人みな、自分の思うこと、自分のすることにこういう意志があるという自覚があるなかで育ったら、

あーしろこーしろという言葉も体罰も要らなくなるんじゃないか。

大人になっても本人の心以外のそういう何かが要るということは、

子供時代に周りの大人がするべきことをしていないことの現われなんだろうなぁ。

でも済んだ事は済んだことで仕方ない。

これからのことは今ここから始められる。

体罰のことが話題になっていること自体とてもいいことかと思う。




「まぁ、自主的なのはいいかなと思って・・」

2013-02-18 09:39:41 | ひとの幸福
「まぁ、自主的なのはいいかなと思って・・」とか、

「そのくらいならいいかなと思って・・」とか、

「何回もあることじゃないと思って・・」とか、

こういう言葉遣いを聞くことがある。ドラマでもよくある言い回しだ。

まぁ、自主的なのは自主的でないよりいい場合は多いし、

回数に関してはどこで線引きをするか、というようなことはあるけれども、

こういった言葉が発される前には、

そのこと、その現象に対して、あまりいい感じを持ってない気持ちがある。

本当はそうしたくない、そうさせたくない、意志がある。

こういう言い方はその事についての自分の本当の意志を、

無いものにすることへの合理化がある。

自分の外側の、所謂世の中の常識を持って来て自分をナントカ納得させたり・・

一回ならと回数で合理化させたり・・

その時の自分の意志をそれらで屈服させるので、

その物事がうまく展開しなかったときに、悔やむ。

何かに失敗した時、うまく事が行かない時、悔やむのは

そのときの自分の意志を尊重せず、誤魔化すことで起こるのかと思う。

意志を屈服させたという自覚もないまま、そうしていると、

ひとを恨んだりすることがある。


失敗しても、辛い思いをしても悔やまないこともある。

そうなるのはその時その時自分の意志を大事にしているということ。

その時その時の自分の意志に自覚があること。

そしてそれは人の意志を大事にすることに繋がる。