ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

朝昼抜き

2013-02-19 22:25:04 | 日々の暮らし・思い出
少し太って来たから、これはいけないと思って昼飯を抜いた。

今日はこれがとてもよかった。

夕飯の支度をする時、お腹が空いているせいなんだと思うけど、

作るのがいつもより楽しい。

普段は鍋物か、ちょっとした煮物、お浸しくらいで凝った料理は全然していない。

あとは切るだけの刺身とか焼くだけの魚とか。

ここは魚が美味しいからね。

この前天ぷらにした時、義父は「手がかかるもの作ったなぁ(今日は)」と言っていた。

その位、何工程もかかるような料理を作ることがないんだけど、

今日は午後の2時くらいから台所に立ち、

料理の下ごしらえや漬物を漬けたり、夏みかんピールを作ったり、

なんだかやる気が出て来てた。

面白い。空腹の方がやる気が出る。考えてみれば当たり前か・・

腹が一杯だと、休みたい、ぐでぐでしたい、ごろごろしたい、になる。

夕飯まで飲み物以外口にしなかったけど、どうってことなかった。

また何日か後で、食べすぎたって書くかもしれないけど。




思ったこと、なってること

2013-02-19 10:44:16 | 言葉
「イタリアに行きたくなった」と「イタリアに行きたいと思った」は違うように、

何かを(したくなった)と(したいと思った)は違う。

言葉が違うと認識が違うものだということがよくわかる。

たくさんの(したいと思うこと)がある。

イタリアに行きたいと思う気持ちはある。

ベトナムにも行きたいと思う気持ちはある。

そういう気持ちがないわけじゃない。

でも、今、イタリアに行きたくなってない。

「なってる」とか、「なってない」というのは今の“状態”を表わす言葉で、

「思った」はその瞬間の顕在意識である意志や意思を表わすものと思う。

まるで違う。

まぁ、何らかの理由で、そうは思ってないけど、「そう思った」という表現をすることはあるかもしれない。

そういう場合の心境は嘘を“つきたくなった”だろうな。

嘘も方便で、嘘を言うことで真実を表わすこともあるから、いろいろと面白いもんだ。

コレは脱線。


「『思う』が論理力を破壊する」とか、

「思う」とか「思います」をなるべく使わないことが論理的に思考できることじゃないか、

なんていうのがこの前の「日本人の知的風土」という本にあって、

それはそれで一つの考えだということはわかるし、

そういう面もあるのだろうけれど、

そう簡単なもんじゃないんじゃないか、という気がどうしてもしてしまう。


なぜ、こんなふうに日本語の言葉遣いに拘っているのかというと、

いや、なぜ、日本語の表現に関心があるかというと、

山岸さんの青い本に「まず日本という国から」とかいう文章が確かあった。

その理由についてはナンタラあったけど、

何故日本という国からなのか・・・いろいろ思う・・・

それは青い本を書いた山岸さんが日本人だから・・

当時の人口やら土地の狭さやら敗戦という出来事やら・・・

青い本の最初に日本の神話を引用してることも何かあると思ってる私でもあって・・・


いま、思っていることは・・

「まず日本から」という表現が出現したわけに、

日本語という言葉が作用してるという仮説を持ってるんだ。

確かに日本人の一人一人は際立っている。

震災後の日本人に対する世界の報道を見ても、そう思わざるを得ない。

組織になるといろいろ・・だけど、一人一人の日本人の、

自然にしてしまう個人的振る舞いは他の国の人と明らかに違う。


言語が心に影響を与えないわけがない。

実際、月本洋さんの「日本人の脳に主語は要らない」に、

同じ内容を日本語で話す時と英語で話す時では脳の使われ方が違うというのもあったよ。


腹が立ったとき、「糞おぅっ!!この野郎ぉ!!!ふざけんじゃね~よぉ!!!」

・・なんて言うと、ヒートアップ確実だしね。

これはその本と関係ないことと思うけど。

「あそこをごらんになって、お母様、きれいな鳥が飛んでいてよ」なんて言っても、

気持ちはまるで違うものになる。

そういう効果も言葉は持っている。

言葉を発することで心の状態が変わることなんかいくらもある。

そんなんやらなんやらでいろいろと日本語の使い方を観察し、吟味してしまう。

女装する気持ち

2013-02-18 22:08:14 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞に女装する男のひとについての特集記事があった。

女装すると気持ちが変わるという。

男として暮らしているとストレスを感じることが多くあるので、

“女になる”という経験で息抜きが出来るという。

男である自分が自分を“女”として扱うことで楽になる。

こういう経験はないけれど、若い頃、一人旅ばかりしてたのは、

自分じゃない自分になるためだった。

いつもの自分を全く知らない人たちの中で、伸び伸び出来た。楽に呼吸できる感じがした。

その頃、会社の中で結構暗い心境でいた。

自分の居場所が無いような、どう見られているかがいつもあって、自意識過剰で、

自分で自分を窮屈にしてた。悪循環の中に居たようだ。

なので、2,3日でも連休があると、知らない人の中に身をおいた。

私を知らない人は私に対して白紙だ。

せいぜいその時の印象だけだ。

周りの人からどう思われているか、を持たない私で居られる。

ここではどんな人にでもなれると、無意識のうちに思ったんだろうな。

大金持ちだとか身分を偽るとかの嘘は付かなかったけど、

子供のように明るく楽しめる人になれた。

別人になりたいという望みは場所を変えなくても、姿を変えなくても、

自分がこう思われているんじゃないかという枠を外せば、

出来るんじゃないかと思うけれど、それは口でいうほど簡単じゃない。

女装したり、ひとり旅に出るのは、(こう思われている)と思い込んでいる意識はそのままにして、

手っ取り早く自分が変われるから、魅力なんだと思う。

普段の顔がないということは仮面が無いということだ。

普段の顔ってパーソナリティ、語源は仮面だそうだから。

仮面は仮面で本面?ではないんだね~


また、今の自分が一人旅に行きたいと思うことがないのは、

どう思われているか、がほとんどなくなったからだろう。

なので、その旅をする意味がなくなった。

一人より気のおけない人と一緒に旅する方が今は楽しい。








2013-02-18 10:36:29 | ひとの幸福
小さな子供が車の運転席に座りたがる。こういうことはあるもんだ。

なんでもやりたがる。なんにでも興味が湧く。

けれど、実際の運転中に運転席に座らせたらいけない。

膝に乗せたらいけない。

ハンドルに触らせたらいけない。

こういう時に、やる気があるということだし、近い距離だし、

他の車も通らないし、歩行者も居ないし・・とかいって

運転席に座らせないという自分の意志を曲げるのはいけない。

こういうことが「躾」という名前の内容なのかと思った。

今まで「シツケ」という言葉に違う解釈をしてた自分だったよ。


いくら座りたいといって泣き叫ぶ、意志が強い子供でも、

その子供の安全のため、私のため、今と未来の周りのため、未来のその子のため、

今、ダメ!という意志を曲げたらいけない。

こういうとき言葉も体罰も要らない。

座らせないという強い意志の下の実力行使だけでいいのかと思う。

幼児期にこういうことを周りの大人がちゃんとすること、

自分の気持ち・意志で自覚的に生きること、をしてたら、

12才くらいからは脳波も大人と同じようになるということのようだし、

なんでも本人の意志に任せるのがいいのかと思う。

周りの人みな、自分の思うこと、自分のすることにこういう意志があるという自覚があるなかで育ったら、

あーしろこーしろという言葉も体罰も要らなくなるんじゃないか。

大人になっても本人の心以外のそういう何かが要るということは、

子供時代に周りの大人がするべきことをしていないことの現われなんだろうなぁ。

でも済んだ事は済んだことで仕方ない。

これからのことは今ここから始められる。

体罰のことが話題になっていること自体とてもいいことかと思う。




「まぁ、自主的なのはいいかなと思って・・」

2013-02-18 09:39:41 | ひとの幸福
「まぁ、自主的なのはいいかなと思って・・」とか、

「そのくらいならいいかなと思って・・」とか、

「何回もあることじゃないと思って・・」とか、

こういう言葉遣いを聞くことがある。ドラマでもよくある言い回しだ。

まぁ、自主的なのは自主的でないよりいい場合は多いし、

回数に関してはどこで線引きをするか、というようなことはあるけれども、

こういった言葉が発される前には、

そのこと、その現象に対して、あまりいい感じを持ってない気持ちがある。

本当はそうしたくない、そうさせたくない、意志がある。

こういう言い方はその事についての自分の本当の意志を、

無いものにすることへの合理化がある。

自分の外側の、所謂世の中の常識を持って来て自分をナントカ納得させたり・・

一回ならと回数で合理化させたり・・

その時の自分の意志をそれらで屈服させるので、

その物事がうまく展開しなかったときに、悔やむ。

何かに失敗した時、うまく事が行かない時、悔やむのは

そのときの自分の意志を尊重せず、誤魔化すことで起こるのかと思う。

意志を屈服させたという自覚もないまま、そうしていると、

ひとを恨んだりすることがある。


失敗しても、辛い思いをしても悔やまないこともある。

そうなるのはその時その時自分の意志を大事にしているということ。

その時その時の自分の意志に自覚があること。

そしてそれは人の意志を大事にすることに繋がる。


ほんとうによいこと

2013-02-17 08:42:58 | ひとの幸福
自分にとって“本当に”よいことは他者にとってもよいことになる。

けど、“その自分”は多くのやりとり・相互作用で出来ている。

・・3日前のブログにこう書いた。

奴隷制度というものが昔あったけど、奴隷側は当然精神的にも肉体的にも辛いものだった。

その制度のおかげで奴隷を使っていた人たちはいい思いをした。

片方がいい思いをしたけれども、それは短期的なものだった。

格差社会と言われている今の社会、これも長い目で見たら短期的なものになる。

昔、奴隷制度があったなぁ、酷いことをしてたもんだ、と私たちが思うように、

21世紀の最初頃、世の中は格差社会と呼ばれていたんだって。

よくそんなことを平気でしてたね~

なんて後世の人たちも、思うようになる。

それは歴史の必然だ。





必然

2013-02-16 12:09:53 | ひとの幸福
上の葉っぱはそこに在るべくして在っただけ・・・

そう書いて・・

みんなみんなそうだなぁ。何もかもが在るべくして在る。

幸福も不幸も戦争も平和も健康体も不健康体も。

様々な、その時々の、いろいろな作用でそうなっている。

偶々そうなったという思いを持つひともあるだろうけど、

事実は常に必然だ。偶然と思っても必然だ。

そうなった展開の全てが人間に観察されているほど、

人間はなってないし、これからもそうだろうけど、

そうなった展開が在ったことについては確信がある人も多い。

その必然の小さな一歩を変えられるのは人の意識。意志。

真実の小さな一歩は真実の大きな一歩になる。

そう在りたい・そうしたい、というエネルギーを持つ人は必ず道がみつかるようになっている。

いま、上に書いた文の語尾に「と、思う」というの書いたけど、消した。

そういうアンテナを張っていると情報や知恵は吸い寄せられる。

これも必然かな。


庭の・・

2013-02-16 10:28:51 | 日々の暮らし・思い出
ゴミを出しに行った帰り、何気なく垣根になってるモッコウバラを見た。

な、なんと!一枝だけ大きな蕾がついている。

見るまで知らなかった。・・当たり前か。

新芽が芽吹いているなとは思ってたけど、寒いのであまり植物たちをジロジロ見てなかったら、こういうことになっていた!

その枝の所だけ特別に陽がよく差したんだろうか。

まぁ、いろいろな要因が互いにいろいろと作用してこういうことになったんだなぁ。

ガジュマルの木は上の方が寒さで茶色になっている。

その葉の下についている葉は上にあるその葉のお蔭で茶色にならずに済んでいる。

お蔭で、と書いたけど、葉っぱの蔭になっている、と同じ字だね~

お蔭さまでとか、御蔭をもちましてとかはいい表現だなぁと思うけど、

その御蔭さまは“誰の”とか“何の”っていうのがない。

そういう表現は不能だからだろうなぁ。

あまりに多くのことが作用してそうなった、ということだと思うから。

それを「お蔭」というのが面白い。

上の葉っぱの蔭で下の葉っぱは枯れずに済んだ。

上の葉っぱは下の葉っぱの犠牲になったのか?

いや、違う。ただ、その場に在るべくして在っただけだ。








ママレード と 佃煮

2013-02-16 10:09:09 | 日々の暮らし・思い出
友人が手作りの柚子のママレードを送ってくれた。

その瓶をテーブルの上に置き、私がトーストにぬって食べていると、

向かいに座っていた義父がご飯の上にそれを乗っけて食べた。

「これは美味い佃煮や」と一言。

夏みかんピールを私が作っても、彼はそれを夏みかんの皮の佃煮と言う。

彼の認識にオレンジピールなるものは無い。

彼にとって長期的に持つ煮物はみな、佃煮である。

認識が言葉になる。言葉は認識の表れ。そう捉えているというもの。

テーブルにオレンジピールが在っても、彼にとっては無い。

在るのは佃煮。

おとうさん

2013-02-14 15:38:39 | 日々の暮らし・思い出
96才の義父は元気である。

正月に夫と私が風邪をひいた時でも、ひとり元気でいた。

一回ちょっと鼻水が出たけど、翌日にはなんともなかった。

この前読んだ「死ぬにはガンに限る」という本に、

病院を毛嫌いして寄り付かない人の方が元気で死ぬ・・というような記述が確かあった・・と思う。

おとうさんはまさしくそういう感じ。

多分ガンにもならずに老衰で亡くなるんじゃないかと思っている。

ひとのことは心配するけど、自分のことは一切心配しない。

自分が風邪を引くかもしれないなどという言葉は彼の辞書には無いようだ。

昨日の朝、起きて来た時、昨夜は身体が痒くて痒くて、

こんなに痒いんだったら生きているのがイヤになる・・というようなことを言った。

前日に日帰り温泉に行って、背中を洗ったことがキッカケになっているのかもと思った。

昨夜の風呂には又オリーブオイルを垂らした。

前に使ったアスカの入浴剤はオリーブオイルが入っていたようで、

浴槽が油でべたべたになるけど、年寄りの肌にはいいみたい。

それが無くなって、同じものを頼もうとしたんだけど、かなり高価なんで、

半額以下になっている別のをアスカで買ったんだけど、

それにはオリーブオイルが入ってないせいなのか、痒みはそれほど治まらないので、

それに食用のオリーブオイルを入れて使っている。

今朝、昨夜の痒みはどうだったか聞くと、ほとんど痒みがなかったという。

よかった~と思った。

死んだほうがましなくらいの痒みなんてぞっとするものね。

太宰治の「皮膚と心」という小説に、

痛みでは人は気絶することが出来るけど、

痒みでは気絶も出来ず、エンエンと苦しむ、というような文章があったけど、

全くそうだなと思う。

それにしても、皮膚の乾燥が元で身体の痒い人にはオリーブオイル入りの風呂はお勧めです。

痒み止めの薬やクリームを塗るより、義父の場合はいいです。

2,3滴でオッケイです。よく混ぜてください。

入浴剤無しでオイルだけというのはやったことがないけど、

それでも多分いけると思うけどな。


委ね合い

2013-02-14 10:32:24 | ひとの幸福
電車とトラックが衝突した事故が一昨日だかにあった。

電車に乗るとき私たちはその運転を運転士に任せ、

トラックの運転はトラックの運転手に任せている。

その他にも全てのひとの動きをその人たちに委ねている。

前にも書いたけど車で走る時、対向車の運転はその運転手するひとに委ねている。

ちゃんと運転してくれてるか、ぶつかってこないかと不安にも思わず私は車を走らせている。

自分の人生を多くの他人に委ねている。

自分のことをひとに委ねてなんかない、自分の力で生きてる、・・・

なんて思う人もあるかもしれないけど、事実の世界では多くのひとの力で生きている。

ひとだけじゃないけど。

委ねるということはそう思っているとかのレベルじゃなくて、

この世はそう“なっている”。私たちはそうなっている。・・ということだろう。

その委ね合いの調子が狂うとき、事故になったり、紛争が起きたり、

不安になったり、するのかもしれない。

どういうとき、委ね合いが狂うのかというと、自分が自分の為にすることをしなかった場合かと思う。

そして、自分にとって“本当に”よいことは他者にとってもよいことになる。

けど、“その自分”は多くのやりとり・相互作用で出来ている。

福知山線の脱線事故の時、亡くなった運転士は

当時のJR西日本という組織の在りように嵌ってしまったのかと思う。



出すこと ②

2013-02-14 09:45:38 | ひとの幸福
出すと何故変わるのか・・・それは“やりとり”という相互作用がそこに発生するから。

「やりとり」という言葉の通り、やる と とる で、やりとり。

出すと受けるで一つ。

一方が用をなさなかったら、効果はないし、逆効果ということもある。

相互作用によって、出したことによって逆効果も生まれるということか。

グアムで無差別殺人事件が起こったけど、

21歳の若い男が犯人だったようだ。

彼の中で今までどんなやりとりの数々があったんだろうと思う。

な 

2013-02-13 16:00:18 | 言葉
それ“なら”それで の「な」

それ“なり”に の「な」

どうなの の「な」

なぁに? の「な」

なんだろう? の「な」

自分“なり”に の「な」

なるべく の「な」

なるほど の「な」

「な」という字は凄い。宇宙・世界は「な」。

「な」は相互関連現象の連なり。

達人 詩人 凡人

2013-02-13 14:23:05 | 言葉
現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。

現実は予想出来ぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。

現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。

それにもかかわらず現実はその根底において、

常に簡単な法則に従って動いているのである。達人のみがそれを洞察する。

それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。

詩人のみがこれを発見する。

達人は少ない。詩人も少ない。

われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。

そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、現実のように不安になる。

そして現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気がつかないのである。

現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。

・・湯川秀樹(昭和十六年一月)

凄い詩だと思う。この文章は前にも引用したことあるけど、

この文章の視点はどこにあるのか?

現実は簡単な法則に従って動いている、そのことを達人が洞察する。

現実はその根底で常に調和している、そのことを詩人が発見する。

・・現実は簡単な法則で動いている、現実はその根底で常に調和している、

とわかっているのがコレを書いた湯川秀樹であり、

ということは湯川秀樹が達人であり、詩人ということになる。

もしくはそれ以上の存在ともいえる。

そして、われわれ凡人は複雑になり、不安になり、広大な真実の世界が横たわっていることに気づかない、と湯川秀樹は観察している。

けど、「凡人は~に気づかない」と湯川博士はわかっている。

広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないとわかっている、ということは

やはり、広大な真実の世界が在ると彼はわかっている、ということ。

が、われわれというからには、それを書いた湯川秀樹という自分も含まれるわけになるけど、

湯川秀樹という一人のひとの中に、達人や詩人や凡人が居るということなんだろうな。

・・・ということはその時その時の意識が在るだけのこと。

一人の人間は物質的にも細胞の集まりで、それは動的平衡という在りようだし、

意識という目に見えないものも素粒子の集まりで動的平衡を繰り返している・・

ということなんじゃないかな。

「心と他者」

2013-02-13 10:13:56 | 本を読んで
この前の旅の帰り、電車に乗っている長い時間退屈しないように、駅で本を買った。

「心と他者」という文庫本が目に留まり、それを買った。

大森荘蔵さんという哲学者の弟子?の野矢茂樹さんという人のものだった。

まだ途中なんだけど、印象的なのが、

「外界に対する内界として『心』を考えるのではなく、

私と他者が世界に対して異なる意味を与える、その場面において

『心』の意味を捉えたい」という文章だった。

量子力学の、観測することでその対象が変化する、そのような相互作用で心は変化する、

といったことと通じると思ったけれど、

全体の文章を読んで感じたのは、

学者の哲学者というのはこんなふうに七面倒くさく考えるのか、だった。

何故それを考えるのか、何故それを考えたいのか、という基盤?が、

山岸さんとその学者では大違いなのかと思った。

仏陀も哲学者だったと思うけど、その仏陀やキリストや山岸さんに在って、

その学者に無い(か、どうかわからないけど)のは、

人類への熱き思いというか、人類の幸福を願う情熱というか、

そういったものかと思った。

思考の基盤にそれがあるとないとでは思考の展開の仕方が違うのは当然なのかと思う。