「勧告文書には廃炉という言葉はなかった。安全管理を任せるに足る運営主体を選びたい」

 高速増殖原型炉もんじゅの見直しを求める原子力規制委員会の勧告を受けた馳浩文部科学相(54)は17日、廃炉の可能性をひとまず否定した。

 使った以上に燃料のプルトニウムが増える高速増殖炉は、天然資源の乏しい日本に自前のエネルギーをもたらす「夢の原子炉」。使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す再処理とセットになった核燃料サイクルは原子力政策の根幹だった。日本は、まだ原発が1基もなかった1956年から、高速増殖炉の開発を原子力開発利用長期計画(長計)に掲げてきた。

 遅れに遅れた開発が大きくつまずいたのが、95年のもんじゅのナトリウム漏れ事故だった。

 プルトニウムを増やすもんじゅが廃炉になれば、サイクル政策を続ける意味がなくなり、使用済み核燃料が「ごみ」となるおそれがある。最終処分場の見通しはなく、使用済み核燃料の行き場がなくなって、ふつうの原発の運転も立ちゆかなくなる。だからこそもんじゅは、成果をあげなくても約1兆円の税金を垂れ流しにして守られてきた。

 

 ■見直す機会2度

 実は、この20年で2度、核燃料サイクル政策を大きく見直す機会があった。いずれも最後は、強い抵抗が立ちはだかった。

 最初は2004年。原子力委員会は長計の改定に向けてサイクル政策を17回、計45時間も集中審議した。六ケ所再処理工場青森県)の試験操業前で反対機運が高まっていた。議論では、使用済み核燃料をすべて再処理すると、再処理せずに直接捨てる場合に比べ、発電コストが10~15%高くなることを認めた。

 ここでつくり出されたのが「政策変更コスト」だ。サイクル政策をやめれば、すでに投資した巨費が無駄になるだけでなく、原発が全て停止、代わりの火力発電所の建設運転費が11兆~22兆円もかかり、結果的に割高になる――。そんな理屈だった。

 2度目は12年。30年代に原発ゼロをめざすとした「革新的エネルギー・環境戦略」を当時の民主党政権がつくったときだ。

 当初、検討されたのが「サイクル政策中止」「もんじゅ廃炉」。戦略策定に民間からかかわった伊原智人さん(47)は「当時、原発はほとんど止まっていたが、停電は起きなかった。撤退できる例外的なチャンスだった」と振り返る。

 だが、使用済み核燃料を受け入れてきた青森県や、もんじゅがある福井県が強く反対した。弱体化した民主党政権に押し切る力はなく、結局、サイクル政策は継続。もんじゅも「年限を区切った計画を策定、実行し、成果を確認の上、研究を終える」とするのが精いっぱいだった。

 

 ■膨れあがる国費

 「15年か20年先には増殖炉もできるようになるだろう」。旧科学技術庁の事務次官を務めた伊原義徳さん(91)は約60年前そう考えていた。実際は今も実現の見通しがたたない。「理論と現実との間の乖離(かいり)が大きかった。まだ50年から100年かかるかもしれない」

 大きな見込み違いを修正できないまま、投じた国費は膨れあがった。だれも責任をとろうとしない。元文科省幹部は「もんじゅは多額の税金を投入した『仕掛かり品』。中途半端にやめるのでなく、何らかの成果を上げるのが国民への責任だ」と延命を正当化する。

 だが、高速増殖炉の実用化は展望できない。もんじゅの維持は問題解決の先送りでしかない。(竹内敬二、桜井林太郎)