小保方晴子さんらによる「STAP(スタップ)細胞」の研究は「植物のほか、動物でもイモリは傷つけるなど外からの刺激を与えれば、万能細胞化して再生する。ヒトを含めた哺乳類でも同様のことが考えられないか」という素朴な疑問が発端のようだ。
その外部からの刺激として弱酸性の溶液に浸した結果、多能性細胞ができたとするのが小保方論文の主旨なのだそうだが、写真が使いまわしだったとか、データに「ねつ造や改ざん」があったなどとして理化学研究所の調査委員会が「不正」との結論を出したのが今回の騒動のあらましである。
「捏造」とは存在しないデータを作成すること、「改ざん」とは得られた結果を真正でないものに加工することである。
私にはこうした分野の知識はほとんどなく英語で書かれた論文を読むことさえできない。従って論文の真偽について判ろうはずもないが、報道されている事実からいくつかの疑問を持っている。
(疑問その1)
小保方博士の立場は理研発生・再生科学総合研究センターの研究ユニットリーダーである。理研すなわち独立行政法人理化学研究所は、1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う日本で唯一の自然科学の総合研究所であり、ノーベル化学賞を受賞した野依良治博士を理事長とする端的に言えば国立の研究機関である。
英国ネイチャー誌に掲載された2本の論文にはハーバード大学のバカンティ教授ほか計14人、問題の論文には8人の共著者が名前を連ねている。
2011年に早稲田大学で博士号をとったばかりでリーダーとなった小保方氏の研究には助言者に、笹井芳樹・副センター長と丹羽仁史プロジェクトリーダーというベテラン研究者がついた。ユニットリーダーということは他にも研究メンバーがいたものと思われる。それなのに何故小保方氏だけの責任が問われるのであろうか。共著者というのはいったい何なのであろうか。理研という組織には責任がないのか。この点は大きな疑問である。
(疑問その2)
小保方氏が割烹着姿で実験して成果を得たとするSTAP細胞が他の科学者によって再現できないとしたらばそれは科学論文としての意味をなさないのだろう。
ネイチャー誌に掲載された論文がまさか“ユリ・ゲラーのスプーン曲げ”だったということはないと思うが、この問題をすっきり解決するための唯一の方法は小保方博士がもう一度自らが主張する手順にしたがって再現してみせることである。一回こっきりの偶然では科学としての価値がないことは誰にでもわかることである。
写真を取り違えたというなら、本来用いるべき写真を出せばいいのだし、データを切り貼りしたというなら、加工する前のデータを出せばよいのに出さない小保方氏の対応にも拙さが目立つ。
その外部からの刺激として弱酸性の溶液に浸した結果、多能性細胞ができたとするのが小保方論文の主旨なのだそうだが、写真が使いまわしだったとか、データに「ねつ造や改ざん」があったなどとして理化学研究所の調査委員会が「不正」との結論を出したのが今回の騒動のあらましである。
「捏造」とは存在しないデータを作成すること、「改ざん」とは得られた結果を真正でないものに加工することである。
私にはこうした分野の知識はほとんどなく英語で書かれた論文を読むことさえできない。従って論文の真偽について判ろうはずもないが、報道されている事実からいくつかの疑問を持っている。
(疑問その1)
小保方博士の立場は理研発生・再生科学総合研究センターの研究ユニットリーダーである。理研すなわち独立行政法人理化学研究所は、1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う日本で唯一の自然科学の総合研究所であり、ノーベル化学賞を受賞した野依良治博士を理事長とする端的に言えば国立の研究機関である。
英国ネイチャー誌に掲載された2本の論文にはハーバード大学のバカンティ教授ほか計14人、問題の論文には8人の共著者が名前を連ねている。
2011年に早稲田大学で博士号をとったばかりでリーダーとなった小保方氏の研究には助言者に、笹井芳樹・副センター長と丹羽仁史プロジェクトリーダーというベテラン研究者がついた。ユニットリーダーということは他にも研究メンバーがいたものと思われる。それなのに何故小保方氏だけの責任が問われるのであろうか。共著者というのはいったい何なのであろうか。理研という組織には責任がないのか。この点は大きな疑問である。
(疑問その2)
小保方氏が割烹着姿で実験して成果を得たとするSTAP細胞が他の科学者によって再現できないとしたらばそれは科学論文としての意味をなさないのだろう。
ネイチャー誌に掲載された論文がまさか“ユリ・ゲラーのスプーン曲げ”だったということはないと思うが、この問題をすっきり解決するための唯一の方法は小保方博士がもう一度自らが主張する手順にしたがって再現してみせることである。一回こっきりの偶然では科学としての価値がないことは誰にでもわかることである。
写真を取り違えたというなら、本来用いるべき写真を出せばいいのだし、データを切り貼りしたというなら、加工する前のデータを出せばよいのに出さない小保方氏の対応にも拙さが目立つ。