全世界に衝撃が走った9・11。
テレビも新聞も見ていなかった。
緩和ケア病棟で夫に付き添っていた。
あの時、私は夫の死に至る経過を
一生
克明に覚えて過ごすものだと思っていた。
それが今、
どんどん記憶から落ちて、
だんだんアウトラインだけになってきている。
バーンと頭がしびれて
そして辛い記憶は忘れてゆくように出来ているのかもしれない。
転職をくりかえし、好きなように生きた太くて短い、
夫にとっては最良の人生ではなかったかと
良いことばかりを思い出す。
テレビで見た
貿易センタービルの崩壊シーンは
次の日だっのか次の次の日だったのかもう定かではない。
意識がはっきり戻った夫が
まるでゴジラの映画みたいだ
これから世界はどうなるんだろう
ますます経済状態も悪くなりそうだ
たまたま見舞いに来た旧知の友と
今後の経済談義までしていた事を思い出す。
9・11のあの日。
テレビすらついていないと言うことは
私が朝刊すら売店に買いに行ってないと言うことは
昏睡状態だったのか?
あるいは疼痛緩和がしっかりされていたから
骨転移したガンの所為で立たない足を忘れて、
立って歩くと言うのを諌めて過ぎたのかもしれない。
ガンに肝臓が犯されると意識障害も出てくると
医師の説明があった。
もう立ってトイレに行けなくなり
紙おむつが必要となっていた。
いつまで続くか分からない闘病生活だった。
病院の人に教えてもらって
近くの量産店に大量に買いに走ったついでに
夏物しか持って来ていない自分に長袖Tシャツも買い込んだ。
それは今もタンスに入っているから確かな記憶だろう。
若い頃、子供さんをガンで亡くし
自らもガン患者である近所の人が
緩和ケア建設運動をはじめていて
近所のよしみで入会してはいたが、他人事だった。
夫の再発、末期告知。
それでも医師の勧めで
ワンクールの無駄な苦しいガン治療を夫は選択した。
治療終了2週間後
再々入院の日が来た。
医療のない我が家での生活に夫が不安を抱いたのだ。
夫は二度と家に帰れない覚悟だった。
しかし治療のない、
回復の見込みがない患者へ病院は実に冷たかった。
そんなある日
会の講演会のおしらせが届いた。
講師は一番近くの緩和ケア病棟ソーシャルワーカー。
付き添いのベットサイドから直で
私は聞きに行った。
そこで見聞きした病棟は
病院はこんなものとあきらめていた
夫が置かれている状態からすると
別天地だった。
講演会終了後、即座に夫に転院しようと話を持ちかけた。
ベットが空いているとも思えなかったが、
ダメモト。
一か八か、
動けない夫に代わって私が緩和ケア外来に行って話す事になった。
そんなたいへんな状態の人が6人部屋ですか
即決。
緩和ケア病棟が空くまで
そこの一般病棟へとりあえずの転院許可が出た。
なかなか担当の医師から紹介状も書いてもらえなかった経緯も話した。
緩和ケア医はその場で
動けない夫の搬送交渉まで電話交渉してくれた。
移ってすぐに疼痛処置がされた。
しっかり刻みこまれていた眉間の縦ジワが
魔法のように消えた。
どこも痛くない
疼痛ケアにも専門があるのだと初めて知る。
死後半年経って、会の会報に短い手記を載せてもらった。
ひとりでも多くの人に緩和ケアを知ってもらいたい思いから書いた。
もし、
同じ立場の人が居られたら
早く、もっと早く
緩和ケアのお世話になっていたらと
後悔してもはじまらない無念な思いをしないで欲しいと。
5年経過して
絶対にわすれないはずの記憶が
もうなくなり初めている。
自分の書いた手記を読み返す事で
記憶を繋いでいる。
多くの遺族を生んだ9・11。
その後11日経過。
9月22日。
私も遺族になった。
あれからのアメリカのイラク攻撃はなんだったのか?
日本の自衛隊派遣はなんだのか?
9・11からもっとたくさんの無関係な人まで巻き込んで
遺族がまた増えてしまっている。
最後を心置きなく付き添え
見送りについては最良だったと思う私と
9・11の遺族の痛みとはまったく別質だろう。
だから余計に9・11が気になる。
夫の死と共に毎年思い出すに違いない。
まだ近場に緩和ケア病棟の計画すらない。
テレビも新聞も見ていなかった。
緩和ケア病棟で夫に付き添っていた。
あの時、私は夫の死に至る経過を
一生
克明に覚えて過ごすものだと思っていた。
それが今、
どんどん記憶から落ちて、
だんだんアウトラインだけになってきている。
バーンと頭がしびれて
そして辛い記憶は忘れてゆくように出来ているのかもしれない。
転職をくりかえし、好きなように生きた太くて短い、
夫にとっては最良の人生ではなかったかと
良いことばかりを思い出す。
テレビで見た
貿易センタービルの崩壊シーンは
次の日だっのか次の次の日だったのかもう定かではない。
意識がはっきり戻った夫が
まるでゴジラの映画みたいだ
これから世界はどうなるんだろう
ますます経済状態も悪くなりそうだ
たまたま見舞いに来た旧知の友と
今後の経済談義までしていた事を思い出す。
9・11のあの日。
テレビすらついていないと言うことは
私が朝刊すら売店に買いに行ってないと言うことは
昏睡状態だったのか?
あるいは疼痛緩和がしっかりされていたから
骨転移したガンの所為で立たない足を忘れて、
立って歩くと言うのを諌めて過ぎたのかもしれない。
ガンに肝臓が犯されると意識障害も出てくると
医師の説明があった。
もう立ってトイレに行けなくなり
紙おむつが必要となっていた。
いつまで続くか分からない闘病生活だった。
病院の人に教えてもらって
近くの量産店に大量に買いに走ったついでに
夏物しか持って来ていない自分に長袖Tシャツも買い込んだ。
それは今もタンスに入っているから確かな記憶だろう。
若い頃、子供さんをガンで亡くし
自らもガン患者である近所の人が
緩和ケア建設運動をはじめていて
近所のよしみで入会してはいたが、他人事だった。
夫の再発、末期告知。
それでも医師の勧めで
ワンクールの無駄な苦しいガン治療を夫は選択した。
治療終了2週間後
再々入院の日が来た。
医療のない我が家での生活に夫が不安を抱いたのだ。
夫は二度と家に帰れない覚悟だった。
しかし治療のない、
回復の見込みがない患者へ病院は実に冷たかった。
そんなある日
会の講演会のおしらせが届いた。
講師は一番近くの緩和ケア病棟ソーシャルワーカー。
付き添いのベットサイドから直で
私は聞きに行った。
そこで見聞きした病棟は
病院はこんなものとあきらめていた
夫が置かれている状態からすると
別天地だった。
講演会終了後、即座に夫に転院しようと話を持ちかけた。
ベットが空いているとも思えなかったが、
ダメモト。
一か八か、
動けない夫に代わって私が緩和ケア外来に行って話す事になった。
そんなたいへんな状態の人が6人部屋ですか
即決。
緩和ケア病棟が空くまで
そこの一般病棟へとりあえずの転院許可が出た。
なかなか担当の医師から紹介状も書いてもらえなかった経緯も話した。
緩和ケア医はその場で
動けない夫の搬送交渉まで電話交渉してくれた。
移ってすぐに疼痛処置がされた。
しっかり刻みこまれていた眉間の縦ジワが
魔法のように消えた。
どこも痛くない
疼痛ケアにも専門があるのだと初めて知る。
死後半年経って、会の会報に短い手記を載せてもらった。
ひとりでも多くの人に緩和ケアを知ってもらいたい思いから書いた。
もし、
同じ立場の人が居られたら
早く、もっと早く
緩和ケアのお世話になっていたらと
後悔してもはじまらない無念な思いをしないで欲しいと。
5年経過して
絶対にわすれないはずの記憶が
もうなくなり初めている。
自分の書いた手記を読み返す事で
記憶を繋いでいる。
多くの遺族を生んだ9・11。
その後11日経過。
9月22日。
私も遺族になった。
あれからのアメリカのイラク攻撃はなんだったのか?
日本の自衛隊派遣はなんだのか?
9・11からもっとたくさんの無関係な人まで巻き込んで
遺族がまた増えてしまっている。
最後を心置きなく付き添え
見送りについては最良だったと思う私と
9・11の遺族の痛みとはまったく別質だろう。
だから余計に9・11が気になる。
夫の死と共に毎年思い出すに違いない。
まだ近場に緩和ケア病棟の計画すらない。