きままな雑記帳

ごく普通のあんちゃんのきままに記す日常日誌

親しき仲にも礼儀ありー度を超す発奮は嫌がらせにしかならないー

2017-01-30 10:50:34 | 人間関係
今回は故事成語。
『親しき仲にも礼儀あり』に当てはまる人物のお話です。
その人物とは、私の20年来の学生(東京で知り合った)時代の友人「サプライズ」くん(仮名)。
なぜ「サプライズ」なのかは、昨年10月に書いた『「そうだ 京都、行こう。」で行ってきました 京都2006』に出てきたはた迷惑な友人のこと。

この「サプライズ」くんとは、これまでも色々とトラブルに巻き込まれてきた歴史があります。
例えるなら、日本に突っかかる韓国のような。

ある時は合コンでなぜか何もしゃべらず、呑める酒も飲もうともせずになぜか私に女性との会話の仲介をお願いしたり、ある時は私の誕生日にあたった平日の月曜にいきなり電話してきて「鍵を忘れたから今日は泊めてくれ」と懇願したり(しかもこの時、買ってきたビールを部屋の床にぶちまけるという失態までやらかしてくれました)・・・。

それでも、こちらも会合の時間に遅れたりしたこともあることから、多少のことは大目にみていましたが。

さすがに今回は腹立たしいと堪忍袋の緒が切れました。

これまでも送られてくるメールなどで(あくまでも本人は)冗談のつもりで嘲笑した内容を送ってきてました。
私も最初は「ヒマ人だな」など一言で返していましたが、段々面倒になってきたので見ても無視することにしていました。
いちいち相手にするのもバカバカしくなってきたからです。
それでも、会話をすれば意図がお互いに伝わってますので、決定的ではなかったのですが、今回は療養中の私に送ってきたメールがひどかった(゚д゚)!

題名:不甲斐ないにもほどがある
本文は「甲斐性が無い」「ニート」「不甲斐ない」の連呼。

おいおいおい、これが療養中の友人に対して送るメールの本文か??
べつに好きで病気になったわけでもありませんし、税金もなんとか納めてます。
ただ療養しているので仕事はしていないだけ。
生活のこともあり実家に戻ってるのを「ニート」呼ばわりとは。

とくに私から何か挑発するようなメールなどを送ってもいないのにこのメールとはね。
こいつには「礼儀」ってものがない。



しかも本人も仕事のストレスからか腸炎になって現在は閑職に回されてるのに。
己は人のことをどれだけ言えるんじゃ、ボケェ!!(; ・`д・´)

さすがに頭に来ましたので先ほど、「絶縁メール」を送りました。

そんなどうしようもない友人でも一つ役立ったこと、それはいい「反面教師」になったことでした。



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国鉄木原線時代の懐かしいお話-今はなき上総中野駅での夜間滞泊-

2017-01-27 09:31:53 | 鉄道
先日、いつものワンコ散歩で普段は交通量が多かったりするので行かない上総中野駅に行ってきました。
中野商店街の道は昔ながらの道路で歩道専用も確保されていない狭い道幅。
それを我が家のワンコのような大型犬を連れて散歩はなかなか骨の折れる作業なんです。



今回は地域の広報誌にも駅周辺にお試しのコミュニティ施設を作るらしい記事を読んだので、どうなるのかと思い足を伸ばしてみました。
足を伸ばしてはみたものの、とくに依然と変化のない上総中野駅周辺。



まだまだこれからのようです。
せっかく来たので、ワンコとともに駅周辺を散策。
小湊バスもお客待ちしています。
小湊鉄道側の側線跡をじっくりと眺めながら、西畑方向にある駐車場へと足を向けました。
私が小学生時代、たしか駐車場の奥周辺に食堂があったような・・・。
そんなことを思い出しながら奥へと歩を進めます。

じつは以前から気になっていたのが弓木の踏切と駅までの間にある建物や畑。
たぶん近所の人の所有なんだろうけど、たしか昔はもっと建物があったような・・・と気になっていたのでした。
それがなんとこの日、ひょんなことから謎が解けたのです。

奥の畑には手前に大きな井戸の跡。
畑はシカやサル除け用にヒモなどで仕切りがされていて、通常は竹の棒を四方に立てるのですが、この畑はなんと使用済みのレールが代用されてました。
さすが線路脇の畑。

そんなことを感心しながら観察していると、作業着姿のおじさんがひょっこり現れました。
私は(やばい、勝手に畑に入って来るな!!と叱られるかな)と怒られるのを覚悟してましたが・・・。

「ここらじゃ見ない犬だな、どっから来た?」と尋ねるおじさん。
私はややひるみながらも「〇〇から来ました、なかなかこっちまでは来ないんですよ。この畑は今日が初めてなんですが・・・」とお返事すると。
「あぁ、それじゃ〇〇の方に住んでるんだな。〇〇知ってるか?俺、若いころ、そいつと仕事してたんだよ」とぶっきらぼうながらもフレンドリーに語るおじさん。
私も当初のビビりもなくなり(叱られる心配がなくなったので)、会話に付き合います。
「お前、年齢いくつぐらいだ?もしかしたらうちの娘のこと知ってるか?」と尋ねてくるおじさん。
私は自分の年齢と名前を話すと「あー、それじゃうちの娘と同級じゃねーか!!」と急に笑顔になって身を乗り出すおじさん。
どうやら私の保育園から中学生までの同級生の親父さんでした。
とはいっても、お互い初対面です。
たぶん父兄会などで親同士は顔を合わせたことがあるのか、私よりも私の家族のことに詳しい親父さん。
「今どうしてんだ?」と尋ねられたので、「体調を崩して療養に実家に戻ってます」とお話しました。

そんな近況報告から話題は駅周辺の歴史話になりました。
親父さん曰く「うちは駅の裏側だからよ、よく『駅がうちの玄関で線路は庭だ』と自慢してたんだよ」と。
たしかに行ったことはなかったのですが、おじさんが教えてくれた家の場所は駅に本当に近い。
そういえば子供の頃、駅が近くて便利でいいなぁと羨ましがっていたっけ(*´▽`*)
駅が近い関係からか鉄道関連の歴史も詳しいようで、国鉄時代の木原線について教えてくれました。

「国鉄の木原線時代はさ、夜の11時頃に中野駅に4両編成で木原線が終電でやってくるんだよ。それで1番、2番(当時の3番ホームと現在の側線)に2両ずつに配置して、早朝始発列車として出ていくんだ。ほら、駅のいすみ鉄道側に小屋があるだろ。あれが詰所」

これですね。



「でも、あの詰所だけじゃ手狭だってことで、今は畑のここに官舎を建てたんだよ。ここで職員が寝泊まりしてたんだな。ところがいすみ鉄道になる時に、いすみ鉄道は中野駅での夜間滞泊はしないってことで、官舎を更地にしてもらって、現在は俺が畑にして道楽してるんだよ」

なるほどね、だから畑の周りにレールが使われているのか。
もしかしたら私の記憶にある駐車場奥の食堂も、その職員対応のために営業していた食堂なのかもしれません。
官舎っていうくらいなので国鉄使用なのでしょうが、小湊鉄道も当時は同様に夜間滞泊していたと思います。
もしかしたら、小湊鉄道は駅舎を所有しているので、職員用の詰め所を駅舎内に設けていたのかもしれませんね。

意外な処で意外な人物と合い意外な話題で盛り上がりました。
これも散歩の愉しみの一つ。

親父さん、線路脇の畑で里芋などを栽培しているそうで、近所の保育園児に収穫体験をさせてるとのこと。
「ここは駐車場の奥にあって車は入って来れないだろ、だから子供も安心して畑で収穫できるし間近にいすみ鉄道が走るから子供も喜ぶんだよ(*^▽^*)」と微笑みながら語る親父さん。
すっかり優しいおじいちゃんの顔になってました。

「この辺りもサルやらシカが出るようになったからさ、用心はしてるんだが、薪を燃やしたニオイがいいようなんだよな。どうも燃えたニオイが奴らは苦手らしくて夕方燃やしておくと翌朝は畑には来てないようなんだよ。」
そう語りながら、我が家のワンコを撫でる親父さん。
なんだか渋くていい雰囲気を醸し出してます。

「またチョクチョク遊びに来いよ。健康のために犬の散歩がてらさ、俺も畑に居るからまた話そうぜ」と最後にお誘いの言葉をいただいて自宅に帰りました。

まだまだ懐かしい中野駅周辺の歴史を聴けるかもしれません。
また立ち寄るしかないな・・・と新たな楽しみを見つけた睦月の夕暮れでした。
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賃貸生活マニュアル97年版

2017-01-26 10:10:54 | 本と雑誌
私が社会人になった1997年。
始めて自分で家を借りて一人暮らしをした年でもあります。
前年の就職活動で不動産会社に就職が決まり、そっからかよ!と怒られるかもしれませんが不動産に興味が出てきた頃。
当時の地元「東林間」駅前にある本屋さんで購入したのがこちら。



「賃貸生活マニュアル~住みごこち向上委員会~」

そのものズバリの本です。
こちらの本、内容的には首都圏各地の街の家賃相場やら生活環境などをわかりやすくマンガでのエピソードなどを交えながらマニュアル風の不動産の本。
なので小難しい業界ブックとは違って素人にも馴染みやすい造りになってます。

内容が各地の環境や家賃相場だと引っ越しを考えてるようになりますが、引っ越してきたばかりなのに?と思われるかもしれません。
じつは引っ越してきた当初からすぐに別の場所に引っ越ししようと考えてました。
なにせ賃貸契約の繁忙期の2月に契約しましたので(3月契約開始)、他に物件がなかったのです。
仕事先は都内(といっても三軒茶屋)だったので、できれば川崎(溝ノ口周辺)あたりで似たような条件の物件があれば転居したいと。
それと、やはり不動産を生業にするからにはそれなりに相場なども自分なりに知っておいたほうがいいだろうという理由から購入した本でした。

で、ちゃんと読んだのか?

もちろんしっかり読破しましたよ。
購入代金もかかりましたので、それは何度も読み返しました(笑)

その後、仕事が忙しくなったり会社が倒産したりする変遷があり、すっかり書棚に保管されたままになりました。
それが20年ぶりに引っ越しを機に日の目を浴びることなったのです。

20年ぶりに読んだ感想ですが、まずは「懐かしい・・・」。
20年という月日は伊達ではありません、赤ん坊が成人してしまう年月ですから。
あとは、当時取り上げられていた地域の20年後の評価です。
例えば「溝ノ口」「中央林間」(神奈川のマイナーな話題ですみません)など、あの当時はようやく開発し始めていたり、ただの住宅街だった場所が、20年後にはショッピングセンターができていたり、鉄道も別路線乗り入れが完成してより便利になっていたりと大きく変化。
当然、当時の相場から大きく変動しています。

ただ、変動はしていても昔のように大幅な値上がりだとかはあまりないんですよね。
人口減や未だにデフレ経済、借りる側の所得増が少ない・・・なども影響しているのでしょう。

20年前はまだまだ都心中心(東京ファースト)でしたが、20年後はだいぶ地元重視に消費者も変わってきてました。
なので、「終電」特集のページがありますが、これは地元ならば関係ないですね。

私自身も当初は引っ越しを考えてましたが、徐々に地元意識が高くなり、最後には第2の故郷とまでなりましたから。
おかげで東林間や相模大野、町田界隈の呑み屋、カフェのお店を開拓できました。

20年ぶりに再び読み返してみると、一人暮らしを始めた頃の思い出が走馬灯のように記憶を駆け巡ります。

最後に、これだけ不動産に興味があったなら資格でも取ればよかったのですが、一応勉強はしたのですが落第してしまったのでした・・・。
お勉強が苦手な性分だけは幾つになっても治らないようです(笑)
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養命酒のメモリー

2017-01-25 10:24:29 | ブログ
今回は養命酒の思い出のお話。



現在住んでいる実家の母屋部分で子供の頃、よく曾祖父母や祖父母と両親が仕事で外出している時に預けれられていた私。
子供って、大人がすること、口にするものに興味を示します。
私の場合、周囲の大人が呑兵衛や喫煙者が当たり前の世界。
いかも旨そうにしてるもんだから興味をそそらないわけがない。

じぃーと観察して、口にしたりしたものです。
今では懐かしいシガレットチョコなどもその一つ。



現代のように「禁煙するのがマナー」とは真逆の時代。
タバコは「大人の男の嗜み」として存在してまして、大人になればだれもが喫煙するのが当然でした。
まるでガムや飴でも舐めるかのように喫煙する大人を見ていて、子供心に「食べてみたい」と思うのはやむを得ません。
一度、タバコをバラシて、葉っぱ部分を口に含んだことがありましたが、これはいけません。
なにより苦い・・・。
そして不味い(>_<)

これは大人たちに見つかって、それからはシガレットチョコをもらえることになりました。
でもこのチョコ、1本ずつ丁寧に紙が巻いてありまして、すぐに食べたい子供にとっては面倒な代物。
結局、巻いた紙はそのままにして、噛みながらチョコを吸い出す方法で食べたりしたものです。

お次はお酒。
当時の祖父母の家には、日本酒などのお酒の他に養命酒が別の場所に保管されていました。
特徴的な真っ赤な箱に茶色の徳利状の瓶、そして御猪口のような小さなコップ。



しかもこれだけはなぜか他のお酒とは別に子供でも取れる場所に保管されている。
そうか!!、これは子供でも飲んでいいんだな
子供というのは時にとてもポジティブな発想をするもの。

別に保管しているのは普段から常用するもので、いわば醤油などとも同じなわけですが、そこまでは深く考えません。
日頃の観察により、どうも祖父が帰宅してからあの小さなコップに注いで1杯飲んでいるのは確認済み。
蓋を開封した際の甘そうな香り。
それにCMでも健康にいいとの評判。

養命酒 CM(1986年)


それは漢方ですから身体にはいいでしょう。
しかしここが子供の浅はかなところ。

甘そうな香りではありましたが、苦味もあるということを・・・。
キュッと一杯引っ掛けるように飲み込んだ私。

うーーーーーーーーん、なんだこれ・・・
苦いし不味い

しかし吐き出すわけにもいかず、そのまま飲み込みました。

ごっくん

大人になった現在であればそれほど不味くは感じないんでしょうけどね、子供の舌にはかなりのパンチ力。
おかげ様で、養命酒を飲んだことは大人たちにはばれませんでした。

でも、これで飲んではいけないものとして子供の心に深く刻まれたのでした。

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駅売りパン屋さん

2017-01-24 11:08:06 | 鉄道
今回は商売をやった時のお話です。

あればもう6年前になりますかねぇ、あの大地震があった年(2011年)の頃。
その前年に勤めていた会社が事業縮小によりまして、解雇されてしまった私。
この会社は、前年に起業した会社なんですが、メンバーは全員同じ会社出身。
その会社が折からの経済危機(いわゆるリーマンショックですね)のあおりを受けて倒産してしまい、露頭の迷うのも・・・と起ち上げたのでした。
そりゃ、会社が倒産するなんてなかなか経験できません。
まぁ、経験しなくていいのなら越したことはありませんし、それに伴う解雇なんてのも経験しないに越したことはありません。

雰囲気としたら「真田丸」の武田家滅亡シーンと似てますね。
上司の「会社は大丈夫です」は裏では「倒産するぞ」になってましたし。

5分で分かる真田丸~第1回「船出」~


もう、上司だろうが部下だろうが関係なく、生き残りに必死。
当時は経済危機もあって不況のどん底でしたから、みんな余裕がありませんでした。
そんな中船出をした小さな会社だったのですが、起ち上げた際にメンバーの一部を雇い切れずに辞めてもらっての厳しい船出でした。
そして1年後に取引関連の問題もあって事業縮小。
私はあえなく野に放たれたのでした

それでも雇用保険などでなんとか食べていくことはできましたが、それも期限付き。
仕事探しもままならない浪人生活の私に元同僚から声がかかりました。

「一緒に駅でのパン売りをやってみないか?」

なんでも同僚の親戚のおじさんが、駅売りビジネスを展開しているそうで、私同様に浪人してヒマを持て余していた同僚に声がかかったそうです。
そして同僚、どうせ人手も必要だし、どうせなら気心知れた私を誘おうと声をかけてきたのでした。
声をかけてくれた当時、ちょうど別の仕事が決まった直後、でも世間の荒波を味わっていた私にとっては仕事は複数あったほうが良いと考えてまして、その仕事の話を「面白い!!」と二つ返事で承諾したのでした。

基本的にお店の運営責任は同僚が担当、私はあくまでもお手伝いです。
この役割分担は仕事を始めた私にとってもありがたいもので、非正規雇用とはいえそうそうに休むわけにもいきません。
お店に必要な小物類などは100円ショップで購入(費用は私持ち)、それ以外は同僚が負担、準備なども全てやってくれました。

店舗経営に慣れるまで同僚が一人で各駅にて研修。
設置する駅は基本的にJRの駅。
それを週単位で駅を巡るシステム。

私がお手伝いしたのはJR相模原駅とJR保土ヶ谷駅。
同僚のお話では集客力には難のある駅とのこと。

店開きは同僚がやってくれてるので私は途中参加で売り子を行います。
「おはようございます、いらっしゃいませー!!こんにちわぁー、どうです、おひとつパンでもいかがでしょうかぁー!!!」
夕方以降は
「おかえりなさい、お帰りにパンはいかがでしょうかぁ!!」
この繰り返し。
同僚はその間に販売戦略を練り、即興でポップを作って並べ替えたり、夕方以降は在庫を確認してタイムセールにしたりと商いの素人ながらも奮闘。

その甲斐もあってかわかりませんが、トータルの収支はトントン。
利益はありませんが損益もありませんでした。

若干残ったパンの残りを齧りながら、商売で儲けを出す難しさを味わった素人の我々。

その後、お互いに別の仕事が忙しくなってしまい、パン販売事業は休業状態になっていたのですが、それから約半年の後、同僚から連絡がありました。
「おじさんの販売会社、つぶれた・・・」

どうやら事業展開に失敗したらしく店じまいとなったそうです。
我々はのれん分けなどを受けていたわけではなく、単なる「研修」扱いだったので幸い被害もありませんでした。

結局、成功も失敗もどっちつかずで終わった駅売りパン販売事業。
今後、自分で商売を行う時のいい糧になったとそう考えています。



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