2大政党制の要件は、両党による政策の差異が大きくない事。
というようなこと言ったのは、たしか福沢諭吉だったような気がします。
というのは、両党の政策の差が大きい場合、一方の政党の失敗を取り返そうとする情緒的な反応で、もう一方の政党に極端に振れてしまって極端な政策しか実行されなくなり、その極端ゆえに効果性の低い政策の繰り返しで国家の生産性は地に堕ちるからです。
戦前(太平洋戦争前)における軍部の暴走の背景には、この両極端化して迷走した議会政治の不備があったという説を私も支持します。
自民党から民主党へ歴史的な政権交代が起きた時にも似たような話はありました。
物事がうまくいかない時には、それも追い込まれれば追い込まれるほどに、人々は抜本的で大胆な解決策を好むが、そんな解決策があるならとうに問題は解決されているはずです。
しかし、人々は夢を見がちで、問題が今も存在する原因を誰かの無知や、イデオロギーのせいにしてしまいがちです。
かといって、無駄な対立を避けようと大政翼賛会のような挙国一致が問題を解決するかというと、逆に自分の首を絞める、それも致命的な結果をもたらす結果につながる可能性が高まります。
なぜ致命的な結果をもたらすかといえば、完全知を持たない人間なら誰しも間違えるからで、大衆知や集合知がそのエラーを相殺してくれるなら誰も苦労しないが、間違えるなら間違いを認めてやり方を変えることができないとなりません。
間違いに気づかず、認めずにそのままやり続ければどうなるか、意図せぬ結果が得られることだけは間違いないでしょう。
もう少し間違う側を擁護すると、どんな政策も完全ではないから、どんな政策にも正しい部分と誤っている部分があります。
誤りのない政策などないのだから、誤りがあるからすぐやり方を変えるべき、という意見も通るわけがありません。
ということから、その誤りが望む結果に対してどう誤っているのか、というより望む結果に対して我々はどうするべきなのか、という点について、何が正しいのかという点について論争する仕組みが致命的(致命的な欠陥を避けるという意味で致命的)に重要であり、「様々な考えが衝突や摩擦を繰り返しながらも共存している」、ということは何よりも大切にすべきものだと考えます。
「共存」とは、ただ並列的に存在するのではなく、それぞれが相互依存関係にあることで、その状況を「価値観の多様性がある」といいます。
この「価値観の多様性」というのは夢であるが、実現は容易ではありません。
現実に我々が見ているのは、多次元の価値観が共存する分裂気味の社会です。
過去何度も語ってる↓これです。
第5回総選挙速報結果に思うこと
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/33cdd9ef2f2f8e235db83485bbb6b0aa
(マス時代の終わりとアイドル戦国時代、そしてAKB48ネットワーク)
したがって、これから始まる新たな1000年、あるいは100年における我々に課された最大の課題が、それら諸々の組織の自立性を保ちつつ、しかもグローバル企業にあっては主権国家の管轄さえ超えた自立性を保ちつつ、今日では戦時以外は失われてしまった社会の一体性をいかにして回復するかである。とはいえ、我々はいまのところ願うことしかできない。われわれは、いかにそれをなすべきかを知らない。
しかしこの望みをかなえるためには、これまでに経験したことのないあることが必要となることだけは明らかである。それは、あらゆる組織が、それぞれの機能への絞り込みを厳しく保ちつつも、社会全体のために協同し、各々の政治機関と協力する意思と能力を新たにしていくことである。新たな1,000年を前にした先進国に対し、これまでの1,000年が遺した気の遠くなるほど大きな課題がこれである。
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社会的分裂という観点で思うのですが、
AKB48の選抜総選挙は、もし国政選挙で選挙区が全国で1つしかなかったら(つまり選挙区がなかったら)、何が起きるのかを考えるのに非常にいい材料を提供しているように思います。
私は以前より、選挙区が分かれていないので、投票する人はお気に入りの個人を選ぶことができるため、政党ではなく個人で選ぶようになると主張しておりました。
1人ひとりが小政党のようなものになり、基本、選挙は個人戦になるということですね。
ただ、全体を考える個人による個人戦ならいいのですが、今回の選抜総選挙を見ていても、全体よりも個人の成功が優先されてしまい、どこまでいっても個人戦の様相を呈しているような気がします。
(私個人の感覚的な話)
個々人の立場からすれば、個人の成功が大前提なので当たり前といえば当たり前です。
が、個人が成功するために全体を犠牲にしたのでは、持続的な個人の成功は得られないので、個人と全体の相互関係をしっかりと考えておく必要はあると思います。
前述した「二大政党制の要件は、両党による政策の差異が大きくない事」の文脈でいうと、理想としては、個人の力を全体の革新能力に変換していきながらも、個人による極論によって全体が危機に陥らないように抑制していく力が必要、ということになるかと思います。
個人戦の中で全体を考える力をどう担保していくか、それが可能だとしたら何なのか?
一つの可能性は「浮動票」ではないか、と思います。
ただ、国政選挙では1人ひとりに投票権が与えられているので「浮動票」というものが存在し易いのに対して、AKB48の場合は投票権が有料であるため「浮動票」は存在しにくいと思います。
娯楽(というより道楽)目的は別として、「推しメン」がいないのにお金を払ってAKB48全体のことを考えて投票する層がどれだけいるのか?という話です。
いわゆる「ハコ推し」と呼ばれる層ですね。
AKB48の総選挙システムで「浮動票」はどの程度存在し得るか?
「浮動票」は力を持ち得るか?
という点について、あと何年かかかると思いますが、見て行きたいと思います。

