進化する魂

フリートーク
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「マクロvsミクロ」の解決に向けて

2009-10-01 22:25:19 | 政治
昨日のエントリ(亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図)は途中で書き終えてしまったので、少し中途半端だった。
なので少しだけ続きを書こうと思う。

昨日も書いたことだが、政策的紛争というのはたいてい立場の違いからくる衝突なのだが、その中でも「どう考えても劣悪な政策なのだが、どうしても推進したがる奴がいる」という種の衝突は「マクロvsミクロ」の構図から成っている場合が多い。


マクロ重視派は合理的な全体最適を指向しているが、ミクロ重視派は全体最適よりも個別最適を指向しており、両者の意見は一致することがほとんどない。
(中略)
両者の違いの理由は簡単で、前者は何らかの特定の物事に利害関係を持たないので全体最適指向を持つことができるが、後者は利害関係を持っているので個別最適指向になりがちだ。
前者は学者に多く、後者には政治家や弁護士、活動家などに多い。


昨日は上記のような説明がメインだったのだが、これだけでは少し説明が不足している。
なぜ利害関係を持つ者はミクロ重視派になってしまうのかという点についての考察を述べていなかった。

理由は「生存本能」と「自己投影」「限定合理性」だ。
順に説明してみる。

まず「生存本能」についてだ。
私はこの言葉が好きでない(人間にそんな本能はないと思っている)ので、本当は生存活動の優先度が高いという意味でバイアスという言葉を使って「生存バイアス」と書きたかったのだが、これだと既に他の意味として使われてしまっているので、誤解を生むので仕方なく「生存本能」を使っていることをあらかじめご了承いただきたい。(哲学のエントリを書くときは違う表現をしたいと思うが)

人間の判断基準においては、ワケあって生き残ることへの優先度が高い
(これは決して本能などではない。例外なら腐るほどある。あくまでバイアスである。)
人は生命が脅かされることや生活が脅かされることについて敏感に反応し回避行動をとろうとする。
これは、原始的な生物であった頃からの習性である。
(今でも十分原始的な存在だが)人間は進化した結果、若干の理性的な判断能力も追加的に手にしたので、今では、原始的な時代の判断と進化した時代の判断と同時に行い、それを最終的にひとつの判断に統合しているが、最終的な判断に及ぼす危険回避バイアスは大きい。

自分に危険性のある利害関係があるとき、人は全体最適よりも個別案件をより重視する
これが生存本能だ。

つづいて、「自己投影」だ。
人間は、自分だけで自己を認識することはできない。
他との関係性の中で常に自己を再定義(認識)し続けている。
誰もが人のフリ見て育っているのだ。
当Blogでいつの述べているように、人間は相対的基準を用いて認識することしかできない。
自と他があって初めて自が成立するのである。
これは、自と他の一体化作業と分離作業の際限のない繰り返しによって実現されている。
(自と他の差異の求め方というのは、結局のところ自と他の比較の連続なのである)
人は、他に自己を投影することによって否応無しに他人の気持ちになってしまうものなのだ。
(そういう意味で自分に興味のない人は他人の気持ちもわからない。要は無頓着な人ということだ)

「生存本能」と「自己投影」の2つで既に次のことが説明できる。
「人間は生活に困った人をほうっておくことはできない。」ということだ。

しかし、これは特に問題のあることではない。(これだけならミクロ派万歳だ)
困った人を助けようと思うのは、人間たる所以であり素晴らしいことだと個人的には思う。
私は、その考えを支持したいし、また唯一の希望だと思っている。
だが、最後のひとつ「限定合理性」が曲者だ。

限定合理性というのは、人間の知性は限られているので限定された範囲の中でしか合理的には振舞えないということだ。
人間は合理的か非合理的かという議論は別にあり、人によっては合理的選択理論(人は合理的に振舞おうとする)を否定する場合もある。
人間はそもそも非合理的な存在だと。
しかし、私はそもそも合理/非合理の判定自体が相対的なものなので、何が合理で何が非合理かを議論するかはあまり意味がないと思っている。
人間の知性が不完全な以上は全て非合理なのだから、全て程度問題でしかない。
(判断がバイアスに歪められることをもって非合理というのも結局のところ知性が限定的だからなのである)

ここで重要なのは、人間の知性は不完全だという点である。
人間は「困った人を救おう」と思っても「どう救えばよいのか」というところの判断を誤る場合が多いのだ。
動機は十分でも方法論がついてこない。
いわゆる精神論に陥りがちなのは、こういうところからきている。

この限定合理性が曲者なのは、それだけが理由ではない。
特に問題なのは、この限定合理性自体を認識していない場合が多いことである。
しかし、それもまた限定合理性の特性なのであって、人類最大の敵でもある。

拙速ではあったが以上で説明してたことで、なぜミクロ重視派が生まれるのかはだいたい理解していただけたと思う。
(あくまで個人的意見だが)

結論としては、「マクロvsミクロ」の問題を乗越えるためには、ミクロ重視派の動機となる部分の「生存本能」と「自己投影」に十分に配慮した上で、最大の要因である「限定合理性」の部分に解決策を提案することである。

このように考えると、永遠に平行線であった議論に解決の糸口がもたらされるのである。


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2 コメント

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一致を得るには (ttosi)
2009-10-02 23:03:10
大切なのは自分の主張と相手の主張が衝突するとき、その理由を本blogの内容のように冷静に分析できることだと思うのですが、主張の一致を得るのは難しいですね。

そもそも視点が違うので一致させることを考えるのは間違いでしょうか。

せいぜい議論が感情的にならないようにするくらいでしょうか。このような理解を持って常に大人な議論をしたいものですね。
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議論の出発点 (advanced_future)
2009-10-03 00:49:06
>ttosiさん
いつもコメントありがとうございます。
嬉しいです。

ttosiさんのご指摘の通りだと思います。意見を一致させるためにはお互いが視点を変えなければなりません。しかし、我々は議論の出発点として「意見の一致」を目指していながら、視点を変えようとしないことがしばしばあるようです。

結局のところ、当Blogのいつもの主張なのですが、「無知の知」が答えになるのだと思います。
自分の視点を変える覚悟を持って議論に望むことが重要だと考えます。
I think it's a adult.
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