進化する魂

フリートーク
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個人の目的として組織のフローを生み出す

2013-11-03 11:14:00 | AKB48_オピニオン
ニーチェが「神は死んだ」と結論して以来、哲学者や社会学者は存在は所詮目的を持たないこと、偶然と非人格的な諸力が我々の運命を支配すること、そして全ての価値は相対的なものであり、したがって恣意的なものであるということを証明するのに忙殺されてきた。

我々が意味を持たないというのは事実である。

しかし、そのことは生活に意味が与えられないということを意味していない。

風立ちぬ、生きねば
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/81304912bedcc89ac1e5af8f53b57041

一般に我々が文化や文明と呼ぶモノの多くは、圧倒的に不利な条件に対抗して、自分自身や子孫がどう生きるかという目的意識を創り出そうとした人々の努力の産物なのである。

生活はそれ自体としては無意味であると認識することと、その認識に黙従するということは全く別である。

我々に羽がないことは、我々に空を飛ぶことができないということを意味しない、という事実と同じことだ。


ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』、「第10章 意味の構成」から部分引用。




※部分的に言い回しや表現などを変更していますので、ご注意ください。


「目的」は個人の努力目標を方向付けるが、それが生活を容易なものにするとは限らない。
目標はあらゆる困難にぶつかる可能性を持ち、そうなると人はそれを放棄するよう誘惑されたり、自分の行為を秩序づける上でより容易に達成できるシナリオを求めようとする。
逆境に出くわす度に目標を変更することに対して支払う代価は、その変更によってより楽しく快適な生活を達成できるかもしれないが、空虚さと意味の欠如に終わりがちになる。

アメリカに最初に定住したピューリタンたちは自らの意識に従う信教の自由が、自己の統合を維持するうえで必要であると決意した。
彼らは超越的な存在と自分との関係を維持しておくこと以上に重要なことはないと信じていた。
彼らの決意は、他の多くの人々もそれまでに同じことをしてきたのであるから、生活を秩序付ける究極の目標の設定に際して新しい選択をしたわけではなかった。
ピューリタンの特徴は、同様な選択をしたマサダのユダヤ人(数百人のユダヤ人がローマ軍に包囲され、閉じこもったパレスチナの丘にある都市の名。1年に渡る籠城の後、全員が自殺した)、キリスト教の殉教者、中世末期の南フランスのカタール派(アルビ派とも呼ばれる。反ローマ教会の宗派)のように、意思を阻喪させるための迫害や苦難に立ち向かったということである。
彼ら罪の自覚という原理に従い、その原理が彼らをどこに導こうとも、彼らが信奉する価値が慰安や生命そのものをすら放棄するに足るかのように振舞った。
そして彼らはこのように振舞ったために、彼らの目標が元来価値あるものであったかどうかに関わらず、現実に価値あるものになった。
献身することによって彼らの目標は価値あるものになり、ピューリタンの存在に意味を付与するのに役立ったのである。


真剣に取り組まない限り、目標は多くの効果を生むことはできない
それぞれの目標は一連の結果を規定し、人がそれらを考慮に入れなければ目標は無意味なものになる。
困難な登頂を決意した登山家はその登山で自分が疲労し、危険にさらされることが多いことを知っている。
しかし簡単に諦めれば、彼の冒険はほとんど価値を持たないことになるだろう。
すべてのフロー体験についても同じことがいえる。
「目標」と「目標が要求する努力」との間には相互関係がある。
目標は最初はそれが要求する努力を正当化するが、後になると目標を正当化するのは努力である。
人は自分の配偶者が人生を分かち合うに値すると考えるから結婚するのであるが、結婚後は、そのことが真実であるかのように振舞わなければ、夫婦の共同関係は時とともにその価値を失うだろう。

あれこれ考えてみると、人類は意思を保持し続ける勇気に欠けていたとはいえない。
さまざまな時代のさまざまな文化の中で、数十億の親が子供たちのために自分を犠牲にし、そのことによって自分自身の生活をより意味のあるものにしてきた。
おそらく同じ数の人々が、自分たちの土地や集団を守るためのエネルギーのすべてを捧げてきたのだろう。
数百万以上もの人々が、自分たちの宗教・国・芸術のために全てを投げ打ってきた。
苦悩や失敗にも関わらず、このような態度を貫いてきた人々はフローを拡張し、生活全体を一つのエピソードとする機会を持つ。
それは焦点を持ち、集中し、内的にまとまるのある論理的に秩序化された一連の経験、その内的秩序のゆえに意味と楽しさがある経験である。

しかし、文化が複雑になるにつれて、この程度にまで意思全体を達成することはますます困難になる。
卓越性を競い合う目標があまりにも多過ぎて、どれが全生活を捧げるに値するか判断し難い。
わずか数十年前、女性は家族の福祉を自分の究極の目標とすることに疑う余地のない正当性を感じていた。
これは一つには、他の選択肢が多くなったという事実によるものである。
今日では、女性は会社員・学者・芸術家、または兵隊にすらなることができるので、妻になり母親になることは、もはや女性の「自明な」第一優先目標ではない。
我々全体が有り余る富になす術を知らない。
機動性の増大が我々を故郷から解放した。
もはや出生地に埋没するために故郷に縛られる理由はない。
他の土地が今いるところよりもよく見えたら、そこへ移りさえすればよい。
オーストラリアで小さなレストランを開くのはどうだろうか。
生活様式や宗教は簡単に切り替えられる。
昔、狩人は死ぬまで狩人であり、鍛冶屋は生涯を腕を磨いて過ごした。
我々は今や自分の職業上のアイデンティティを意のままに投げ捨てることができる。
一生会計士である必要は誰にもない。

我々が直面している選択肢の豊富さは、100年前ですら考えられないほど個人の自由を拡大してきた。
しかし、いずれも同等に魅力的なものから何かを選択する際に避けられない結末は目的の不明確さである。
不確実性は順次意志を鈍らせ、意思の欠如は選択したモノの価値を減じてしまう。
したがって、自由は生活の意味の洗練に役立つとは限らない。
いや、逆なのである。
もしゲームのルールが柔軟過ぎれば集中は薄れフロー体験を得ることはより困難になる。
選択の機会が少なく明瞭な時の方が一つの目標を選び、その目標が必然的に求めるルールに依拠することは遥かに容易である。
このことは、過去の厳格な価値や限定された選択への回帰が、可能ではないのだが、たとえそれが一つの可能性であったとしても、好ましいということを意味しない。
我々に突きつけられ、我々の祖先が懸命に戦って勝ち得た複雑さと自由は、我々が達成法を見つけなければならない一つの挑戦である。
もし我々が達成すれば、我々の子孫の生活はこの惑星でこれまでに経験されてきたモノの全てよりも遥かに豊かなものになる。
もし我々が達成しなかったら、我々は矛盾した意味のない目標にエネルギーをなし崩しに使うという危険を冒すことになる。

しかし同時に、我々は心理的エネルギーを投入する場所をどのようにして知るのだろうか。
我々に「ここに君が人生を捧げるに値する目標がある」などと教える者はどこかにいるというわけではない。
頼るべき絶対の確実性はないのだから、各人が自分自身で究極の目的を見つけ出さねばならない。
試行錯誤や厳しい陶冶を経て、我々は葛藤し合う目標の束のもつれを正し、行為に目的を与えるその一つを選ぶことができる。

「自己知」
あまりにも古いので、その価値を簡単に忘れてしまう古代の救済は、人が錯綜した選択肢を整理する過程である。
「汝自身を知れ」という言葉がデルフォイの神託所の入り口に刻まれて以来、数えきれないほどの宗教的警句がその価値を称揚してきた。
この忠告が繰り返される理由は、それが実際に良い結果を生むからである。
しかし我々はこれらの語が意味するもの、また個人に対するこの忠告の実際の意味を世代ごとに新たに吟味し直さねばならない。
そのためにはそれを現代の知識に基づいて表現し、それを適用する現代的方法を想定してみることが有効である。



「活動」と「反省」は理想的にはともに補い合い、相互に支え合うべきものである。
それ自体としては活動は盲目であり反省は無力である。
大量のエネルギーを一つの目標に投入する前に、基本的な疑問を問うてみるのは無駄ではない。
それは私が本当に望んでいることなのだろうか。
私はそれを楽しんでやっているのだろうか。
近い将来、私はそれを楽しんでいるだろうか。
私、そして他者が支払う対価はそれに値するだろうか。
もしそれを達成したなら私は自分自身と折り合っていけるだろうか。

これらの一見単純な疑問も、自分自身の経験との接触を失った者にとってはほとんど回答不能である。
自分が望むものを見つけようと悩んだことが無ければ、また注意が外発的な目標に縛り付けられているために自分自身の気持ちに気づけないならば、人は意味のある活動を計画することはできない。
他方、自分を省みる習慣が十分に発達していれば、人は一つの行為がエントロピーを増加させるかどうかを見極める為、たびたび自己分析をする必要はなくなる。
彼はこの昇進がそれに値する以上のストレスを生むこと、または現在は魅力的なこの特定の友人関係が、結婚という文脈では耐え難い緊張へと至るということをほとんど直感的に理解するだろう。

心を短期間秩序づけることは比較的容易である。
どのような現実的目標でも心を秩序づけることができる。
良い試合、緊急の仕事、家庭での幸せなくつろぎは注意に焦点を与え、調和のあるフロー体験を生み出す。
しかし、このような状態を生活全体に及ぼすことは遥かに困難である。
生活全体をフローする為には我々が万策尽きた時でさえ、また快適な生活を拒否する無慈悲な運命に出会った時でさえ、我々の努力を支える説得力のある目標にエネルギーを投入することが必要である。
目標が正しく選ばれ、抵抗に負けずにそれを堅持する勇気を持つなら、我々は様々な行為や周囲の出来事に十分注意を集中することができ、したがって不幸を味わうことはない。
その時、我々は全ての思考と情緒が調和ある全体へと適合する生活の広がりの中で、秩序の感覚を直接感じることになるだろう。



今日でも我々は時折、過去の偉大な宗教の精神的洞察に基づく内的秩序を具現した生活をしている人々に出会う。
証券市場の非道徳性、防衛産業関係者の腐敗、政治家の無原則主義が毎日新聞紙上を賑わしているが、逆の実例も現実に存在している。
苦しんでいる人々に手を差し伸べることが意味のある生活の必須要素であると信じて、余暇の一部を割いて病院で死に瀕している患者と共に過ごす成功した実業家もいる。
そして祈りから力と静穏とを引き出し続けている多くの人々がおり、強いフロー体験を生む生む個人的に意味のある信念体系を持つ人々がいる。

しかし、伝統的な宗教や信念体系によっては救済されない大多数の人々がいることは確かであり、その数は増えつつある。
彼らの多くは古い狭義に含まれる真理と、その時代が付加した歪みや堕落を区別できず、その誤謬を受け入れられない為に、そこに含まれる真理さえも拒否するのである。
他の人々はあれこれの秩序に全く絶望し、何であるかを問わず、たまたま生じた信念にしがみつき、ファンダメンタリストになったり回教徒になったり共産主義者になったりする。

21世紀の子供たちの生活に意味を与えるのには役立つ新しい「目標-手段のシステム」が生まれる可能性はあるのだろうか。
ある人々はかつての栄光を回復したキリスト教がその必要に答えると確信している。
ある人々はいまだに共産主義が人間経験におけるカオスの問題を解決し、その秩序は世界に広まると信じている。
現在その双方ともに起こりそうにはない。

もし、新しい信仰が我々の想像力を捉えるとすれば、それは我々が知っていること、我々が感じていること、我々が望んでいること、我々が恐れていることを合理的に説明するものであるはずである。
それは我々の心理的エネルギーを意味のある目標に向けて整理する信念体系、フローをもたらし得る生活法のルールを与えるシステムであるはずである。

このような信念体系が、科学が人間や宇宙について明らかにしてきたことを全く無視することなど想像できない。
科学の基盤なしには我々の意識は信条と知識との間に引き裂かれてしまう。
しかし、科学が信念体系の確立に真に役立つものとなるためには、科学それ自体が変わらねばならない。
現実の孤立した部分を記述し統制する様々な専門領域に加えて、知り得た知識全ての総合的な説明を発展させねばらなず、それを人類とその運命に関連させなければならない。

このことを達成する一つの方法は進化の概念を用いることである。
我々の大多数に関わることの全て、我々はどこから来たのか、どこへ行こうとしているのか、我々の生命を形作っているのはどのような力なのか、善や悪とは何か、我々は相互に、また地球以外の宇宙の全てとどのように結びついていくのか、我々の行為の結末は何か、などの疑問は、我々が進化について現在知っていること、また将来我々が知ろうとしていることと関連させてはじめて体系的に議論することができよう。

このシナリオに対する明らかな批判は、科学一般、とくに進化についての科学は、それが「何であるか」を扱うのであり、「どうあるべきか」を扱うのではないということである。
他方、信条や信念は現実に限定されない。
それらは何が正義か、何が望ましいかを問題にする。
しかし、進化論上の信条で重要なことの一つは、まさに「あること」と「あるべきこと」とのより密接な統合なのである。
我々はなぜ我々のようであるのかをよりよく理解する時、本能的衝動、社会統制、文化的表現などの起源、意識の形成に寄与する全ての要素が、より十分に認識される時、我々が自分たちのエネルギーをそれが進むべきところに方向付けることはより容易になるだろう。

また、進化論的展望は、我々のエネルギーを注ぐに値する目標を指示している。地球上での数十億年以上もの生命活動の中で、しだいに複雑な生命形態が姿をあらわし、人間複雑な神経形態で頂点に達しているということには疑問の余地はなさそうである。
大脳皮質も順次意識を進化させ、今では大気同様、地球全域を包み込んでいる。
複雑化のこの現実は、「ある」とともに「あるべき」ものなのである。
それはそうなった。
地球を支配している条件によって起こるべくして起こった。
のであるが、我々が前進させようとしない限り複雑化を続けることはできないだろう。
進化の将来は、今や我々の手の内にある。

過去数千年、進化の時間のほんの一瞬のうちに、人類は意識の差異化の面で信じられない進歩を遂げてきた。
我々は人類の他の生命形態から切り離されているという認識を発達させてきた。
我々は人間を互いに切り離されたものとして理解してきた。
我々は抽象と分析、落下する物体の速度をその重量と質量から切り離すように、物体の次元と過程の次元を相互に分離する能力を発明した。
この差異化が科学や技術、それに環境を作り破壊する人間のよそうもされなかった力を生み出したのである。

しかし、複雑さは差異化と統合化を含んでいる。
次の数十年、数世紀の課題はこの心の未開発の構成部分を実現することである。
我々自身を相互に、また環境から切り離すことを学んできたように、今や我々は我々自身を周囲の実在物と、我々が苦労して勝ち得た個性を失うことなく再統合することを学ぶ必要がある。
未来についての最も有望な信条は、宇宙の全てが共通の法則によって関連付けられた一つのシステムであり、このことを考慮することなく我々の夢や願望を支自然に割り込ませることは、無意味であるという認識に基づくものだろう。
我々は人間の意志の限界を認識し、地球上での支配的役割よりも共同的な役割を受け入れることで、ついに我が家に辿り着こうとしている流浪者の安らぎを感じるはずである。
その時、意味の問題は宇宙的なフローと融合した個人の目的として解き明かされるだろう。


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